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嫌と言ったら嫌なの

嫌といったら嫌なの。

以前「さわることは無意識と無意識のコミュニケーション」ということをnoteに書いた。それからも無意識について考えることが多いので、考えをまとめつつ書いてみようかと思う。

この仕事をしていると、人の無意識にかかわることが多い気がする。
というのは、身体そのものが無意識のかたまりのようなものだと思うから。

先日、夫が話していたのだけど、
「職場の後輩がさ、このコロナショックの中、次の職もみつからぬまま辞めていったよ。理屈は分かるけど嫌といったら嫌なんだって。なんか君みたい。笑」

そう、私は恥ずかしながら嫌と言ったら嫌という人間で。言葉にできないことが最近生きていくうえで自分最大のウィークポイントだと思っている。そしてそれが結構な悩みで、苦手なビジネス書を読んでみたり。

でも今日はあえて自分を擁護してみることにする。

多くの場合、自分が自分の意志で決定したと思っている事柄は、人間の脳が後から説明をつけるだけであって、環境やそれによる感覚からの判断が先行している...と言われている。

嫌といったら嫌というのは、何かしらの感覚、たとえば皮膚感覚や嗅覚など様々な感覚の結果であって、その感覚たちは必ずしも意識に上ってくるとは限らない。
それによって生じた結果=嫌という感覚だけが意識に上ってくるということも多くあり得ると言う。

人間なんだから言語化できないと人間である意味がない。なんて言うけれど、言葉に出来ない感覚もある事を思い出すとそうも言ってられない。

いわゆる「シックス・センス」だ。

人間が測れるものには限界がある。少なくとも今のところは。光や音の波長は測れるから存在を証明できる。
でも測れないからといって存在しない事にはならない。

生きているものに触ったときの、あの生きている感覚はなんだろう。
人が心地よくなると自分まで心地よくなる、あの感覚はなんだろう。
人がまとう空気感はなんだろう。

私たちは環境から受ける、名前も付いていない感覚に動かされている。
みんな自分の意識というものを過大評価しすぎなんだと思う。

だから、たまには言葉にできない感覚を、自分を正当化してもいいかな、なんて思っている。

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