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トキノツムギB面

18 グリフィス②

 診察室へ向かう廊下の半ばくらいで、こっちを見もせずにグリフィスは言った。
「君のことだよ」
何のことかと聞いても教えてくれないだろうから、そのまま診察室について入る。グリフィスの部屋は入ってすぐが診察室でその奥の扉向こうが個室らしい。診察室と言っても他の部屋の作りと同じだ。
 柔らかい絨毯、天蓋付きベッド、書き物机と中央に小さな丸テーブル。
ベッドの天蓋からは薄いカーテンが降りていて中が見えないようになっており、壁沿いのガラス棚には様々な瓶が並ぶ。その2点だけが診察室らしいところだ。リアンのように運び込まれた場合は入院用のような部屋もあり、そこには点滴を吊るす物なども置いてある。
 紙のいろいろが立ててある広めの書き物机には背もたれのない回転式の椅子があり、横に白衣をかける場所などもあるが、その白衣も着ずに、開口1番、グリフィスはアイリスに言った。
「上脱いで」
こんなぞんざいな医師がいるだろうか。
しかし、それ以上に、アイリスには脱ぎたくない理由がある。
躊躇っていると、重ねて言った。
「脱げない理由でもあるの?刺青とかなら全然問題ないけど」
無表情なので、グリフィスが何を追求したいのか良く分からない。
「君も結構ストレス受けたんだから、向こう戻る前に診といてもいいでしょ」
しかし更に言うので、これは逃げられないという気がした。
そういう習慣だから、と言えないでもない。しかしアイリスは、グリフィスが実は気遣いの人であることを知っている。無茶なことを、何の理由もなく言う人間ではない。
 覚悟をしてシャツを脱ぐと、当然のようにグリフィスの目は左上腕に向いた。
そんなに深いものでは無い。しかし、そこには5ミリ間隔くらいに並んだ傷がいくつも、それこそ刺青のようにある。
グリフィスは近寄って、じっくりとその傷を見た。触ったり皮膚を押さえてみる手つきは事務的だ。
「そんなに深い傷でも生々しい傷でもないね」
手を離すと、アイリスをちょっと見る。
「別に僕はいいと思うんだよ。ちゃんと手加減して切れてるみたいだし、それで何か気が済むなら。まあでも、見たからには理由は聞きたいよね」
淡々とした言い方なので、逆にアイリスはこの流れで言える気になった。
「何かの気晴らしとかじゃなくて、印のつもりで付けてる」
「何の?」
ソーヤにも言ったし、グリフィスにもいいかと一瞬思ったが、自分が追っているこれが何か問題になった時に、普通の誰かを巻き込みたくはなかった。
「俺にとって大事なことを、毎日が充実してたり楽しかったりすると、忘れそうになるから」
アイリスの答えから一瞬の間があって、グリフィスは言った。
「人間の頭は覚えるのと忘れるのセットだよ。大事なことなら、必要な時に思い出すんじゃないの?年がら年中、日がな1日何かを覚えてるなんて、それはもう悩みと一緒だよ。精神削るよ」
ため息をついて続けた。
「親しければ親しいほど、身近に悩んでる人間いるのって見てると辛いと思うけど。僕ももう知り合いだから、君の傷が痛い」
遠回しに、リアンのことを言っているのは分かった。
けれど、一体どうしろと?
誰も巻き込まずに、最小限の人間にしか迷惑かけずにやるにはどうしろと?
ぐるぐる回る言葉は飲み込んで、それを完璧な笑顔で隠して答えた。
「分かった。もう、これはしない」

 その笑顔を見ながらグリフィスは思う。
 これは、リアンに言っといた方が良いんじゃないか?
医師には守秘義務がある。個人情報をポロッと零す訳にはいかない。
 しかし。
今、グリフィスの言葉は、思った以上にアイリスに届かなかった。どこかでこの言葉を思い出してくれることがあるだろうか。あって欲しいと思う。

ドアが静かに閉まる。
誰もいなくなった診察室で、グリフィスは1人佇んでいた。

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