中野昭慶監督

JMMAコレクション・マネージメント部会研究部会 「日本特撮技術に関する映像記録・アーカイブ化の試み」 -特技監督中野昭慶氏へのオリジナルインタビュー映像を巡って- 髙橋 修(東京女子大学)

髙橋 修(たかはし おさむ)
1971年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(文学)、東京女子大学現代教養学部教授。主な著作は、「甲州博徒論の構想」(平川新編「江戸時代の政治と地域社会 第2巻 地域社会と文化」清文堂、2015年)、「甲州博徒抗争史論」(「山梨県立博物館研究紀要」7、2013年)、「近世甲府城下料理屋論序説」(山梨県立博物館展示図録「甲州食べもの紀行」2008年)ほか。

1 本会の実施について                       

 2015年に筆者が本部会の幹事に就任してからは、アーカイブから博物館を捉え返すという統一的な視点に基づいて研究部会を開催してきた。2016年に実施された担当1回目の部会では社史編纂と企業ミュージアムの関わり、翌2017年の2回目には教育関係アーカイブの収集と活用をテーマとした。3回目にあたる今回は日本特撮技術に関する映像記録・アーカイブ化の試みとミュージアムの関わりという視座から、オリジナルインタビュー映像『特技監督 中野昭慶が語る特撮映画の世界』の初上映会と関連記念トークイベントを開催した。
 中野昭慶監督は特撮映画監督の第一人者として著名であるが、他方では、大阪万博をはじめとした博覧会や東京ディズニーランド等のテーマパークにおける企画・演出にも携わり、展示業界にも深い関わりがある。そこで特撮映画から展示業界を照射することで、どのような新たな論点が導き出せるか、という観点から本会の開催を企画した。
 当日は、会員はもとより会員以外の方からの大勢の参加者に恵まれ、盛況であった。以下、その折の様子をお伝えしたい。なお、本会の会場については(株)乃村工藝社の御理解と御協力により御提供いただいたので、ここに記して謝意を表する次第である。

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○日 時:2017年12月10日(日) 14:00 ~ 17:00
○場 所:ノムラスタジオ(乃村工藝社本社ビル)
○参加者:96名
○講 師:中野 昭慶 氏(映画監督)
     黒塚 まや 氏(フリーアナウンサー)
     小澤 智之 氏(ビデオグラファー)
○開催趣旨(同研究部会の案内チラシより抜粋):2016年7月に公開された映画『シン・ゴジラ』(脚本・総監督/庵野秀明 監督・特技監督/樋口真嗣)。その大ヒットは記憶に新しいところですが、その道筋をつけた
のが『ゴジラ』(1984)や『日本沈没』(1973)、『連合艦隊』(1981)、『竹取物語』(1987)など数多くの作品で特撮演出を担当した中野昭慶監督です。今回の研究部会では、中野特撮の真髄に迫るロングインタビューで構成したドキュメンタリー映画『特技監督 中野昭慶が語る特撮映画の世界』を初公開し、また中野昭慶監督が登場するトークイベントを開催します。円谷英二、黒澤明、成瀬巳喜男、田中友幸、松林宗恵など日本映画界を代表する映画人たちとの交流など、日本特撮映画史上にその名を残す中野監督の貴重な話が聞ける機会となります。参加者の皆様からの質問に答えるQ&Aのコーナーもございますので、皆様お誘い合わせの上、ご参加ください。

2 本会の内容について

 当日は次の内容により実施された。
○14:00 ー15:45
 『特技監督 中野昭慶が語る特撮映画の世界』上映
○16:00 ー17:00 トークイベント
講師:中野昭慶 氏・小澤智之 氏・黒塚まや 氏
 

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 まず、インタビュー映像の作成経緯について、同作の撮影・編集・監督を兼任した小澤智之氏は次のように述べている(以下、当日配布資料から引用)。
 中野昭慶監督のロングインタビューを映像で残そうと考えたのは、2013年の秋でした。山梨で国民文化祭の一環でサブカルチャーイベントの運営スタッフをしていた時、特撮関連のトークゲストでお呼びした中野監督と富山さんがお帰りになるので、私が運転する車で甲府駅まで送っていきました。 その車内で富山さんが、「中野監督の発言は貴重だから記録した方が良いよ」という内容の発言をしたのです。(中略)私は地方テレビ局の報道記者兼ビ
デオカメラマンの仕事をしていたので、やるのなら映像だと考え、後日中野監督にお電話して、ビデオカメラによるインタビュー取材をさせていただけないかとお願いしました。その時、中野監督は「早くしないと死んじゃうよ」と冗談交じりに仰り、快諾していただきました。そこから全て動き出しました。

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 上記の「富山さん」とは平成ゴジラシリーズのプロデューサーとして知られる富山省吾氏のことである。中野監督は多数の映画関係誌・書籍等で取材を受け、中野昭慶・染谷勝樹『特技監督 中野昭慶』(ワイズ出版映画文庫、2014)として詳細な自伝も公刊している。だが、ロングインタビュー映像という形態でその姿・肉声と共に映画人生全般をアーカイブ化するという試みは、これまであまり多くは見られないことであった。
 こうした経緯・理由から中野監督へのインタビュー映像プロジェクトが小澤氏を発起人として立ち上げられ、2014年11月にインタビュー撮影の実施がなされた。さらに関連する人物や場所の追加撮影を行い、約3年近くの年月を経て完成したのが本インタビュー映像という訳である。なお、私事にわたり恐縮だが、筆者も本映像のインタビュアーを務め、映像製作にあたりそのごく一部について補佐役として携わった。幼少の頃より中野監督の数々の映像作品に魅了されてきたことから、光栄この上ないことであった。

中野監督にインタビューする高橋准教授


 実際のインタビュー撮影作業は4時間近くにも及んでいたが、完成作ではそれをおよそ95分に切り詰め、密度の濃い映像として仕上がっていた。個人的には樋口真嗣監督が中学生の頃に中野監督に手紙を出したエピソードが興味深かった。従来の映画関係書籍ではあまり取り上げられていない話題であり、多くのファンには初耳の情報であったのではないだろうか。
 映像上映終了後の休憩時間には、中野監督ファンであり、若手アーティストとして活躍中の八重樫紀史氏作による戦艦大和の細密な鉛筆画スケッチの展示がなされた。戦艦大和は中野監督の代表作である『連合艦隊』の主役であることから、これは本会に相応しいサプライズである。来場者の多くが作品に近寄り、じっくりと鑑賞していたのが印象的であった。

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 トークイベントでは、フリーアナウンサーであり、インタビュー映像ではナレーターも務めた黒塚まや氏の司会により、中野監督と小澤氏との間で、また、会場の参加者も交えながらまさに抱腹絶倒のトークが繰り広げられた。そこで次に、中野監督の発言を中心としてその状況を紹介しよう。

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3 トークイベントでの中野監督の発言要旨

 最初にインタビュー映像の感想を述べてから(中野監督曰く「ちょっと喋り過ぎたかな」)、映像文化について縦横無尽に語っていただいた。紙幅の都合上、主要トピックに絞り込んだことを御了承願うものである。                                

〇シン・ゴジラをどう見たか?

 デジタル時代に相応しい、新しい映像として高く評価している。『ゴジラ』(1984)を演出した際は、ゴジラの体形のディテールを徹底的に描写することをテーマとして掲げたが、『シン・ゴジラ』の樋口真嗣特技監督はそれをよく継承・発展させている。ただ、第2弾を製作する場合、どのような展開とするかは大きな課題である。息子を育てた親のような心境であり、
だからこそ庵野秀明・樋口真嗣の両監督には命がけで頑張って欲しい。


〇自作を振り返って、また、次作の構想について

 かつて黒澤明監督から「映画監督は言い訳をしてはいけない。映像で語ったものが全て」と言われた。まさにそのとおりで「拘りと粘り」の姿勢で作り上げていかなければならないと思う。振り返ると自分の作品は60点だが、もし次作製作の機会に恵まれるのであれば、70 ~ 80点の映画が出来るのではないか。新作の構想はある。それは子どもの目線から戦争を捉えたものである。第二次世界大戦終了に近い頃、自分はまだ9歳位で、戦争で死ぬ事を当然と捉える軍国少年であった。一体、誰が、何のためにこうした軍国少年を育てたのか?という視点から、当時の風俗・社会を考証し、現在のデジタル技術を駆使しながら、映画としてまとめあげてみたい。

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〇テーマパークの企画・演出について

 映像製作の経験を活かし、東京ディズニーランドをはじめとしたテーマパークや博覧会の企画・演出も手掛けてきた。ウォルト・ディズニーは映像作家であることから、彼が作り上げたディズニーランドには映画的な工夫が随所に見受けられる。特に「何が面白いのか?」「ホスピタリティとは何か?」という点が突き詰めて考えられ、ランド全体のグランドデザインにそ
れが反映されている。そこに「拘り」が感じられる。一例として、入口からシンデレラ城までのルートは、シンデレラ城が象徴的な存在となるよう、ルート周辺の建物や道路の配置が遠近法的に強調されるようディフォルメ化されたデザインがなされている。これは特撮映画のミニチュアセットの飾りこみと同じ表現技法である。エレクトリカルパレードの演出も担当したが、それは夜間滞在の面白さを追求した上で案出したものであり、それも「気持ちよく滞在できる空間」づくりの一環である。


〇会場からの質問1 海外の映像作品で印象に残ったものは?

 キャロル・リード監督『第三の男』(1949、英)が映像の世界を志したきっかけ。特にラストシーンの音楽の使い方を含めた映像表現には圧倒された。


〇会場からの質問2 田中友幸プロデューサーからの「無茶振り」で印象に残っている作品は?

 プロデューサーは無茶振りが仕事であるが、とりわけ厳しかったのは本多猪四郎監督『海底軍艦』(1963)の時である。正月映画として企画された『忠臣蔵』の役者スケジュールが合わなかったことから急きょ製作決定がなされた作品で、実際の撮影期間はわずか3週間しかなかった。円谷英二特
技監督はプロ意識が強く、「絶対に出来ないは無い」という信念があったので、製作体制に工夫を凝らし、期日内に完成させることが出来た。「無茶振り」のおかげで困難な条件下での製作を余儀なくされ続けたが、反面、それがあったからこそ、多くの映画作品が生み出されたことも事実である。その意味では田中プロデューサーを尊敬している。


〇映像アーカイブとして作品を残す意味

 近年のデジタルリマスター化技術により、過去のフィルム作品を細部まで明瞭に鑑賞できるようになったのは素晴らしいことである。あらためて映画製作の先輩達の「拘りと粘り」を画面上で確認できたことに感動した。もし、自作の中でデジタルリマスター化が実現されるとしたら、『連合艦隊』を希望する。最後の大和轟沈シーンでは「鎮魂の花束」となるよう爆発の色に徹底的にこだわって撮影したので、それがデジタル技術で鮮明に蘇れば80点をつけたい。デジタル新時代を迎えた今こそ、映像界の先人達が努力
して作り上げた「拘りと粘り」を歴史の中から丹念に解きほぐし、それを踏まえて後世にアーカイブとして伝えていくことがJMMA関係者・本会参加者の大きな役割・課題である。

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4 特撮映画という視点から博物館を捉え直す意義           

 中野監督が特技監督として数多くの特撮映画を製作した1970年代は、日本映画界全体にとって激動の時代を迎えていた。当時は娯楽の多様化が進み、また、テレビの普及も与って映画界全体の斜陽化が叫ばれていた。日本の経済情勢そのものは上向き傾向にあったが、それが人件費・材料費の高騰化を招き、また、映画館への入場者数の減少化という事象とないまぜとなって、大手映画会社の作品製作本数は激減した。映画産業全体が負のスパイラルに陥ってしまっていたのである。

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 こうした状況下にあって、映画人が活路を見出した分野の一つとして挙げられるのが博覧会等をはじめとした「展示」である。1969年に大阪万博の三菱グループのパビリオンプロデューサーを務めた田中友幸氏は後に「森(岩雄)さんは、これからの映画プロデューサーは、映画界ばかりでなく、他のビッグビジネスにも通暁した事業家でなければならない、とおっしゃったのだ。お言葉は当たっていた。万博終了後もわたしは東宝と三菱グループのご支援を得て株式会社日本創造企画を設立し、総合プロデューサーとして沖縄海洋博、神戸博に参加し、全天周映画、スモークスクリーン、シルエトロン、ホリミラースクリーンといった、ダイナミックな映像に興味を持つようになった」と述べている(田中友幸「特撮映画の思い出」『東宝特撮映画全史』東宝株式会社出版事業室、1983年、58頁)。
 怪獣映画の着ぐるみやミニチュアなど特撮映画の造形の数多くを担当した安丸信行氏も「映画の無い時は、そういう(博物館の)ジオラマとかを作ったの。(発注が)乃村(工藝社)とか丹青社からくる」(『僕らを育てた造形のすごい人 安丸信行編』アンド・ナウの会、2016年、140頁)と証言している。
 

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 1970年前後頃からの映画産業の斜陽化が博物館・博覧会・テーマパーク等をはじめとした展示業界との交流を促進させてきたことがこれらの証言が浮かび上がってくる。大阪万博を契機に博物館の展示技術は質的に大幅に向上したが、その背後には当時、斜陽化した映画産業に携わる技術者達が展示業界に進出し、その能力・技能を存分に発揮していた歴史があったことが読み解けるのである。
 従来、映画や博物館の歴史はそれぞれ独立して語られる傾向にあり、現場にあってその技術を担っていた人々の動向は十分に明らかにされてこなかった。だが、今後は個別ジャンルを越えて視覚表現文化・視覚効果技術の発達という視点から統合的にこうした歴史を把握し直す必要がある。そして異業種交流の機会増加が映画・展示それぞれの分野の活性化にどのようにつながっていったのか、そのことを実証的に追求することが重要な課題であるといえよう。
 そのための基礎的前提として特撮映画関係者の証言の記録化・アーカイブ化は必須の作業といえる。今回、中野監督のオリジナルインタビュー映像を作成した小澤氏からは、本作品を公的機関に寄贈することや、映画関係者に
よる上映会等の機会をとおして積極的に公開・活用を図ることを念願していると伺っている。まさにこうした歴史を紐解き、未来に伝えようとする活動の積み重ねが博物館をはじめとした視覚表現文化界の発展に大きく寄与するのである。そのことがあらためて共通認識として確認された点において、本会の持つ意義は大きかったものと結論づけられよう。

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※本稿はJMMA会報NO.82 Vol.22-2より再構成しました。

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