堀内實三(元東宝専務)が語る小林一三
山梨県出身の堀内實三氏は、昭和31年、立教大学経済学部卒業後に東宝入社。昭和57年に映画調整部長、平成6年に東宝の専務取締役に就任したことで知られる。ゴジラ映画ファンには、昭和59年のゴジラ復活に伴い東宝内に設立された「ゴジラ復活準備委員会」(のち「ゴジラ委員会」)の委員長だったことを覚えている人もいるだろう。新しいコジラを復活させて成功させるためには全社が一丸にならないといけない。そこで部署間の枠をとっぱらって、各部門から責任者を出してもらって、ひとつの命令系統で動くクループを作ったのである。現在の東宝の精鋭社員で組織されたゴジラ戦略会議、通称「ゴジコン」(The Godzilla Strategic Conference)の原型にあたる。
その堀内氏は東宝創設者である小林一三の縁者である。今回は堀内氏が生前の小林一三について語った貴重な記録をお伝えする。これは平成20年9月7日に山梨県韮崎市で開かれた山梨学講座のシンポジウムでの堀内氏の発言をまとめたものである。
ご紹介いただきました堀内です。今日は小林一三翁の縁者ということで、この山梨学講座のシンポジウムに参加させていただきました。よろしくお願いいたします。 私が生まれた昭和7年に一三翁は東宝株式会社を作りました。私が学校に入学から大学を卒業し東宝株式会社に入社するまでの間、 一三翁はすでに晩年でしたので、私にとってはいいおじいさんという関係でした。
皆さんもご存知でしょうが,一三翁は韮崎の布屋に父甚八、母きくのの長男として明治6年1月 3日に誕生しました。姉竹代は明治3年12月8日生まれでございます。母きくのは、一三を産んだ年の8月22日に亡くなっております。 22歳でございました。したがって、生まれてわずか半年で母親と別れたわけでございます。 父甚八は竜王の丹沢家から婿養子となりました。その頃は、婿養子に入り嫁が亡くなると離縁されてしまうのです。離縁には大変驚いたのですが、子ども二人はおじいさん、おばあさんに引き取られて育てられました。
父甚八は竜王の丹沢家に戻り再び塩山の田辺家に婿入りし、そこで、四男三女に恵まれます。 長男の七六さんの息子さんは皆さんご存知の衆誌院議員や山梨県知事を務められた田辺国男さんです。父甚八は明治26年1月27日に42歳で亡くなっています。
そのような理由で一三翁は幼い頃おじいさんおばあさんに育てられたので、お姉さんとは非常に仲が良かったそうです。また、二人は居候ですので、大変つらい思いもしたそうです。一三翁は大変な聞かん坊で、親戚だろうと近所の子どもだろうとけんかをすると負けたことがなく、けん かをすると近所のおばさんたちに怒られたようですが、怒られても自分が悪くないと思えば、絶対に謝らなかったそうです。いつも謝るのは私の祖母である姉だったと開いております。そして、けんかをして大人に怒られると「姉やん、今に見ておれ」と言ってじっと我慢したと、祖母から聞いたことがあります。 これは反逆心・自尊心につながっているのかなと思っております。
大変な姉思いで細やかな気遣いをしてくれました。私が小学生の時に祖母に連れられて永田町の家に行きました。一三翁が商工大臣の時だったのですが、永田町に家がありまして玄関の横に警察官が立っていたことを覚えています。また、私が大学受験をする時のアドバイスや就職の相談をした時、お前は東 宝に入れ」と言われまして東宝を受験しました。 「おかげ様で受かりました」とご報告したところ、大変喜んでいただいたということを思い出しております。
小林一三は一三の名前のとおり1月3日に生まれました。 1月3日生まれだから一三と名づけたと聞いています。私事でなんですが、 私の母は四番目で兄と姉が若くして亡くなったため婿を取りました。私が生まれた時は、 堀内家では久しぶりの男の子の誕生だったために祖母が非常に亭び、一三翁に自分の孫の
名前をつけてくれとお顔いしました。私は9月27日生まれでございますので、 「それならば二七とつけろ」と言ったそうです。祖母が 「二七では丁稚(でっち)みたいで困るので、なんとか違う名前をつけてくれ」と頼み、時の総理大臣・齋藤實の「實」と小林一三の「三」を頂き實三と名づけていただきました。あれから75年、名前に恥じないような生き方をしてきたかなと思うわけでございます。
私には四つ違いの弟がいたのですが、残念ながら52歳で他界をいたしました。彼が生まれた時に一三翁から私の父に手紙が来ています。その手紙には「男の子おめでとう。名前 は八二か正二」とありました。弟は8月2日生まれでした。二つ選択がありましたので、正二にしましたが、考えてみますと、二七と八二の兄弟でも良かったかなという気がいたします。
小林一三翁は名前に生まれた日付をつけるのが好きだということを言われていまして、実際、一三翁の三番目の息子さんに米三さんという人がいるのですが、米三さんは8月18日生まれです。米という字は八十八と書きま すので日付から取ったと思います。また、お孫さんに八十子さんという方がいまして8月10日生まれです。こちらも日付から取ったものだと思います。
しかし、よく考えていきますと一三と名づけたのは、お父さんの甚八さんです。甚八さんが再婚し生まれた長男が七六さんです。 7月6日に生まれたかは定かではないですが、日付を名前にするというDNAは甚八さんにあったのかなと考えています。とりとめのないお話をさせていただきましたが、小林一三
翁の思い出の一つとしてお話しさせていただきました。ご清聴ありがとうございました。
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