雑草談義
雑草談義
先日の篠原さんとの対談動画でも話題になった雑草の話です。
その日の配信前にも、食事をしながら話していました。
私:「バラは無農薬で育てるのは不可能だと聞いたんですけど…?」
篠原さん:「そんなことないですよ。私のところのバラの話ですが何もせずに放って置いたら初めは、真っ白にカビが生えて、その次に真っ黒なカビだらけになってしまいました。そうしたら、その周辺だけ、バラの高さまで雑草が生い茂り、気が付いたらバラが元気になりました。雑草がバラの病気を治してくれたんです。」
私:「すごいですね!」
*次なる私の目標は「自分で育てた花で植物細胞水を作りたい!!」です。バラか芍薬をやろうと思っています。
もちろん農地を借りるところから始めなくてはなりませんがとにかく、何年かかっても実現しようと思っています。
話を雑草に戻します。
なぜ、病気のバラを治すような雑草だけが、そこに生い茂ったのか??とても不思議でなりません。
植物同士が、何らかの情報のやり取りをしてなくてはこのようなことは決して起きません。
いったい何が起きているのでしょうか?
病気とは自然の循環から切り離されたときに起きる症状とも言えますから、より大きな循環の中にさえ戻ることができれば、病気は勝手に治ってしまうという事かもしれません。
水は、どんな情報もキャッチしますから、より高次の俯瞰した情報もしっかりと受け取っているという事なのだと思います。
配信でも篠原さんが「庭に咲いている雑草を観ればその家の人の病状が解る」と仰られていました。
篠原さんのお父様がご病気になられたとき、なぜか庭からウドの木が生えてきたそうです。
普通は庭にウドなんて生えてこないらしいのです。(ウド→タラ→自然薯)
そういった庭に生え出した植物を煎じて、父親に飲ませたところ、病気が回復していったとのことでした。
「家の庭に生えている植物は全てその家の人の薬になる」という事です。
じつは、私の家にも、生える雑草が変わってきているのを感じていました。
玄関先の小さな花壇にはクローバーが生い茂っていたのですが、知らないうちにそれらは無くなってしまい、ツタのような雑草が生い茂る様になりました。
ちょっと摘んでは、しがむようになりました。
私:「どうして、身体の状態を植物が知っているのですか?そもそも、その植物の種は、どこから来たんですか?」
篠原さん:「鳥が運んできたり、靴の下にくっついてきたり、色々です。」
私:「すごい、すごい!!!」
いったい、我々人間含むこの生態系はどういった情報処理をしているのでしょうか?
動物も植物も、ほぼ水で出来ていますし、水はすべてを写す記憶媒体でもあります。
我々の意識では到底気が付かない大自然の調整力が働いていると考えたほうがいいのではないかと思います。
ラマナ・マハルシは「あるがままに」と仰り、老子は無為自然を説きました。
良寛さんも「死ぬる時節には、死ぬがよく候」と仰っています。
おそらく、これらの覚者たちは、この大自然の調整力を知っていたのではないでしょうか?
我々人類は、大自然から学ぶことを忘れ、科学の進歩で大自然を凌駕できると勘違いしてしまっています。
「病気の時は治そうとせず、病気のままにしておけばよい」「治そうとすると、余計病気になる。」
これが答えのような気がします。
大きな自然の調整力に身を任せることが、本当の意味での快癒に向かう早道かもしれません。
私が、家庭用の真空蒸留器を開発した動機の一つに、その辺に生えている雑草で薬ができれば、多くの人が救われるのではないかということがあります。
しかも、一番必要な雑草は家の周りにあるという事ですから、こんないいことはありませんね。
また、雑草を飲む必要すらないのかもしれないと思いました。
観たことのない雑草が生えていることを、こちらが気づきさえすれば思いやりさえすれば、きっと薬になるんじゃないでしょうか。
すでに身体の水にも影響が起こるという事です。
植物などの生態系の微小な変化に気が付くこと、これは、微小な変化に思いを向けることができること(思いやり)とも言えます。