【備忘録】おばあちゃんのお葬式の日。
この記事は、自分のために記します。今この時、どう思っているのか。これまでと、そしてこれからの私のために記します。
おばあちゃんが、亡くなりました。
勢子。92歳。
その名の通り、勢いが凄まじい人でした。
特に口が悪く、思ったことは全て口に出す。
気が強くて負けず嫌い。気に食わないことがあったら直ぐに喧嘩吹っかける。
甲高い声で怒鳴り散らして負かす。
基本的に周囲の人はみんな敵って思ってるんじゃないかな?ってくらい人を信じない。
口癖は「友達は裏切るから要らん」。
貧しかった戦争時代を生き抜き、誰も信じない、自分しか信じない。
孫のことが可愛くて仕方がないのに、愛情表現することが極端に下手。
体裁ばかりを気にするから、現代を生きる孫たちとはやはり分かり合えない。
気づけば、おばあちゃんが特に可愛がった孫たちはみんな遠くへ巣立っていった。
少々複雑な幼少期を過ごした私は、このおばあちゃんと数年共に暮らしていたのだけど、優しいとか穏やかとかいう所謂「かわいいおばあちゃん」像というものとは程遠く、というか真逆で、昔からどぎつすぎるおばあちゃん。
子供の頃から何度も喧嘩をして、その内容は幼い子供とおばあちゃんがするようなものではなく(家族間のドロドロ問題など)、それが成長していく過程で大きな枷、トラウマになったことは間違いないと思っている。
おばあちゃんは優しい。おばあちゃんはいつも笑ってくれる。そんな世間の印象は私には全くない。
ただ、鬼ではあるけど料理は上手で、いつも美味しいものを食べさせてくれた。幼稚園か、それよりも前か、おばあちゃんの家で過ごしていた時の私は、おばあちゃんの目にはとても幸せそうに映っていたようだ。確かにその頃のことも覚えている。毎日がとても楽しかった。
小学校何年生か忘れたけれど、徐々に大人のゴタゴタ話を聞かされるようになった初孫の私は、それに耐えられなくなってしまう時期が来る。隣人の同級生に、辛いということを打ち明けたことを今でも覚えている。このゴタゴタ話は、大人になった今思うのは、大人で解決してくれということだ。大人になった今だからこそ、その当時の事情もわかる。おばあちゃんの気持ちもわかる。ただそれは、子供に言うべき話ではなかった。これは直接おばあちゃんに話したことがあるが、「あんたにはもう一切この話はせん」と逆ギレされたような覚えもある(笑)そして中学入学とともにバスケ部に入部して忙しくなったことを理由に、おばあちゃんの家に行く頻度は極端に減った。しかし行けばやはり聞きたくない話を聞かされるので、年齢を重ねるにつれ、より会いにいく回数は減っていった。
おばあちゃんは、歌が好きだった。孫を育てることに必死で、自分の時間をあまり持とうとしなかった(ように見えていた)のに、急にカラオケにハマった。演歌だ。
自慢じゃないが、おばあちゃんは歌がめちゃめちゃ上手かった。
まず声がでかい。よく通る。
カラオケ教室に通い、「私が一番上手い」と言っていた。
数々の大会、発表会にも出て、自分の思い通りの結果が得られなかったらめちゃくちゃ悔しがると共に「私の方が上手いのにから」とか「審査員はあの人のこと気に入っちょる」とか負け惜しみを必ず吐いていた。それを大きい声で言うからまじでやめてくれと思ったこともある。
未だ20代半ばだったある日、突然「おばあちゃん孝行をしておかなければ」と思った私は、おばあちゃんと歌の大会に出場した。大村能章のカラオケ大会だ。
この大会の地区予選でめでたく私とおばあちゃんは決勝大会への切符を得る。場所は防府市アスピラート。
この決勝大会で、何と私はおばあちゃんを上回る4位に輝く(笑)。
この結果をおばあちゃんは喜んでくれると思った。だって孫が4位ですよ。喜ぶでしょ普通。
しかし逆だった。おばあちゃんは「よかったね」的なことは言ってくれたような気がするけど、それよりも物凄く悔しそうだった。
孫にも負けたくないんかい!と突っ込みそうになった。
結局、私の「おばあちゃん孝行」という意図は全く伝わらなかったように思う。逆に悔しい思いをさせてしまったから(笑)
その後も、年に一度くらいはおばあちゃんの家に行った。私も大人になったので、喧嘩というよりは諭すようなことをよくしていた。
話の内容はまったく清らかなものではないので、晒すことはできないが、今でも私は間違っていないと思う(笑)。
それでも私が帰る時は、何だか寂しそうな顔をしていた。玄関先で、ドアが閉まるまで心配そうな顔で私を見つめている。こんな顔する人だっけ?と思った。
なんとなく帰るのが惜しいと思ってしまうほどの。それでも、また来るからと言って帰った。
防府市と光市は下道で約1時間半。そう遠くはないけれど、思いつきで行こうと思うには距離がある。それに、会いに行ってもどうせ喧嘩になるし、また家族間のいざこざを聞かされるだけだ、と億劫な気持ちが勝って(いや本当に凄いんだから。孫に聞かせないでって思うレベル)、会いに行くことを前向きに捉えられない時期が続いた。トラウマに近かった。
振り返れば小学生の頃からずっとだから。
会いたいけど、会いたくない。会いたいというより、会わなくちゃいけない。
…みたいな気持ちがずっと続いていた。
とはいえ、おばあちゃんと話をするのが凄く嫌だったのかと言われれば少し違う。
小学生の頃は、いつまでも明かりがついている台所に行って、母も弟も寝ている中、おばあちゃんと二人でよく話した。何を話したのかは覚えていないけど、大人びた話だ。きっと小学生の孫にするような話じゃない。
たぶん子育てをする上ではあまり良い会話とは言えない。今思えば、聞きたくなかった話だった。いつもそうだった。
おばあちゃんは若ぶりだった。
台所のダイニングテーブルの上に、たくさんの化粧道具と鏡が入った大きな菓子箱がいつもあった。
朝はそのダイニングテーブルの定位置にその菓子箱を置いて、どぎついメイクをする。
性格もどぎついのに、眉毛も釣り上がったように描くから、余計にどぎつさが増す。(母と叔母が選んだ遺影が晩年のあまりにも優しい表情で笑うおばあちゃんの写真だったので、「なんでこれにしたんだ」と弟と盛大に突っ込んだ。私たちの中にいるおばあちゃんは、どぎつい表情のままなのだ)
私が化粧をする年齢になってからは、私のメイク道具を見ては「それええかね?」と言うのでアイシャドウを貸したことがある。「ええね」と無表情で言いながら目の上に乗せていた。
いつからだろう。おばあちゃんが化粧をしなくなったのは。特に髪の毛のことを言っていた。昔は毛量も多くロングヘアーで、長い前髪を山のように立ててビシッと決めていた。毎日。かっこよかった。
しかし、毛量が少なくなり、また白髪になるにつれて、その「おばあちゃんらしい」ヘアーは見られなくなっていった。それでも、ちびまる子ちゃんのお母さんのような所謂「おばちゃん(おばあちゃん)パーマ」には絶対にしなかった。ショートヘアまで短くもせず、前髪も切らず、ボブくらいの長さで後ろに流していた。大きな櫛でゴワッゴワッという音をさせながら髪を解いている姿を今でも覚えている。
次第に化粧もしなくなったけど、ステージに立つ時は違った。相変わらずオーダーメイドのギラギラの高そうな衣装に身を包み、どぎついメイクをして、右手に杖、左手にマイクを握りしめて歌っていた。
おばあちゃんがステージで歌う姿を見たのは、スターピアくだまつでの大会が最後になった。
大好きな歌をうたうことも次第に辛くなっていったようで、遂にカラオケを辞めてしまったと母に聞いた。でも私は言い続けた。カラオケだけは辞めない方がいいと。しかし声が出ないのでは歌えない。
おばあちゃんは、どんどんおばあちゃんになっていく。
そんな中、デイサービスに通うようになったおばあちゃんは、新しい趣味を見つけたようだった。それは、短歌。
「私が一番うまい」ハイ出たー!おばあちゃんの「私が一番うまい」出たー!
歌は辞めても、相変わらず負けず嫌い健在だな、まだまだ生きるなと思った。
まだまだ生きるなといえば、以前こんな話をしたことがある。
「はぁ(もう)ばぁちゃんはいつ死ぬかわからんけーね」
と、突然言い出すものだから、
「いやいやおばあちゃんみたいに言いたいこと全部口に出して生きよったら死なんっちゃ。私の方が早く死ぬかもしれんわ」
と返した。本心だった。死ぬ気がしなかったからだ。
すると普通、「あんたが先に死ぬなんてダメだ」とか「孫が先に死ぬのを見るくらいなら私が先に死にたい」とか言うと思うでしょ?
そんなことは言わない言わない。
「そりゃそうかもしれんね」
と真面目に言ってきた。おいおいおいおい。こういうことが頻繁にあったので、生きることに対しても負けず嫌いだな、孫に対してすら負けたくないんだなと、なんというか複雑な心境になった。(カラオケの時といい、幾度も思っている)
しかし、会わないうちにおばあちゃんはやはり、どんどんおばあちゃんになっていく。
見た目は勿論だけど、口が悪いのは相変わらずとはいえ、同じことを何度も言ったり、料理をするのが好きだったのに、作ることができなくなったり。
おばあちゃんに会いに行った時のこと。いつものように愚痴のような不満のような憤りのような話をしていて、どうしてそういう展開になったのかは覚えていないのだけど、戦後の話をおばあちゃんがし始めた。当時、貧乏だったおばあちゃんは女学校に通っていたんだけど(確か)、そこの食堂でうどんを食べた。素うどんだ。周りの女学生はみんな肉が入っていたそうだ。自分は素うどんしか食べられないのに、周りは肉の入ったうどんを食べている。羨ましくて仕方がなかったのだと言って、泣いた。おじいちゃんの葬儀の時も泣いていなかったおばあちゃんが、泣いた。初めて見たおばあちゃんの涙だった。若い頃だったらきっと見せなかっただろう。歳をとって思い出したのだと思う。あの頃の辛かった思い出を。だからきっとおばあちゃんは、食にうるさいのだと思う。食べなさいよと言っていたんだろうなと思った。戦時中、戦後の話はあまり積極的には聞いたことがない。聞くべき話なのかもしれなかったけれど、聞いていい話なのかはわからなかったから。この素うどんの話は、後のおばあちゃんを形成する大きな出来事だったに違いない。
最後にまともに会ったのは約2年前になると思う。
ゆめタウン下松にあるしゅうなんFMはガラス張りのスタジオで、車椅子だったか歩行器だったか忘れたけれど、おばあちゃんと叔母が買い物に来たついでに私の生放送の様子を見にきた。
その時のおばあちゃんの様子が忘れられない。
喋っている私の横顔を、ずっと、ずっと見ていた。瞬きすらしていないのではないだろうかと思うほどに微動だにしない。一度だったか、目があった時に笑った。
何を思っていたんだろうと今でも思う。
愛情を温かい言葉にして伝えることができない人だったから、私は愛されているという実感が正直なところほとんどなかった。でも、この時はその愛情を感じずにはいられなかった気がする。照れ臭くて見えないふりをしたけれど。
でも、思い起こせば、その時の言葉の数々の中には、わかりにくいけれど確実に愛があったんだろう。今ならわかる部分がある。ただ、やっぱり伝え方は大事だよ、おばあちゃん。
おばあちゃんが死にそうだと母から連絡を受け、すでに息を吸うことしかできないおばあちゃんのお見舞いをした。与えられたのは5分間〜10分間。目を開けて話をしているおばあちゃんの姿を最後に見てから、どれだけの時が過ぎただろう。
会いにきなさいよ、電話しなさいよと母からよく言われていたけれど、子供の頃からの蟠りが邪魔をして、その気になれなかったというのが嘘偽りない気持ちだ。またきっと家族間の愚痴を聞かなくてはならない。すごく嫌だった。
けれど、ようやく会ったおばあちゃんは、もうそんな口を叩ける姿ではなかった。
この時の気持ちは言葉にはできない。悲しいとか辛いとかじゃない。
それよりも、儚いという言葉の方が近いかもしれない。でも…ちょっと違う。
そして翌日。なんとなく身体が怠かった。仕事をして、帰路につき、気分が悪かったのでベッドに横たわったその瞬間、スマホが鳴った。
母からだった。泣きながら。すぐに察した。
さっき、亡くなったという話だった。気分が悪くて横になろうとした時間だった。
悲しいとか、辛いという気持ちはまだ湧かなかった。というか、自分の気持ちが全くわからなかった。
通夜で化粧をしてもらった姿を見て、そして翌日の葬式で火葬を行い、親族と「じゃあね」と別れるまで、私は一度も泣かなかった。と言うよりも、泣けなかった。やっぱりわからなかった。なぜ泣けないのか、悲しくないのか、なんて愚か者だろうと、帰りの車でひとりずっと考えた。
そういえば葬式の最後に、おばあちゃんの顔のそばに花を供える時にふわりと思った。
「あっちの世界でもおばあちゃんらしく元気に生きてよ!」って。
ふわりと。本気で思った。降ってきたような。
それを車の中で思い出しながら、家に着いた。
まだよくわからなかった。自分の気持ちも、おばあちゃんへの想いも。家に帰ってベッドに突っ伏して、薄情だなと思って罪悪感に苛まれた。
でも、夫に聞き役になってもらいぽつりぽつりと言葉にしてみた。
私の中にあるおばあちゃんとの思い出は、70%はムカつくもの、30%はありがとうと思うもの。その割合に自分で笑った。
70%のムカつく思い出については、小さいものから大きいものまでたくさんある。大切にしていたぬいぐるみを隠されたこと。大切な友人を馬鹿にされたこと。この小さな事柄含め、ムカついた(笑)大きなものは、子供の頃からおばあちゃんが亡くなるその日まで心に大きくのし掛かっていた。だからどうしたって本心だ。やっぱりこの思い出がなければ、私はもっと楽に生きられたと思うからだ。これは自分の心を守る為にも曲げられない本音だ。
残りの30%は、先述したことと、今だからこそ思い出せる幸せなもの。浴衣を着せてもらって盆踊りに行ったこと。庭で飯事をしたこと。嫌々でも家族間の話を聞いて少し大人になれた気持ちになったこと…。
でもそんな思い出よりも、自分の性格や性分を振り返った時、おばあちゃんから受け継がれているものの多さに気づいて、涙がようやく溢れた。
負けず嫌い、気が強い、でも緊張する、自分の思うようにならなかったら不機嫌になる(笑)、声がでかい、ハッキリ言葉にする、歌が好き、練習しまくる、人と同じは嫌、よく夢の話をする、その夢を引きずる、自信のあることに関しては自分が一番だと思っている(私はここに関してはまだ弱いけど…)など。
そういえば以前、おばあちゃんに言ったなぁ。
「孫の中で私が一番おばあちゃんのDNA引き継いでる自信があるよ」って。そうかもしれんね、と言われたのか、ほくそ笑まれたのかは忘れたけど。あまり面白そうな顔ではなかったような。
でもその頃から自覚があったんだ。
だからなんとなく気持ちがわかった。
まだ歌をうたいたかっただろう、美味しいものが食べたかっただろう、まだ死にたくなかっただろう、まだ生きたかっただろう、ここにいる誰よりも長く生きたいと思っていただろう。
だって私だったらきっとそう思うから。
それでも最期はとても辛そうだったから、もういいよと、もう楽になってほしいよって正直なところ思ってしまった。
けれどおばあちゃんはたぶん、負けず嫌いだから葛藤していたんだと思う。
生前、母に「私はもう死ぬんかもしれん」と漏らしていたとも聞いた。気が弱いところもある。だからこれも本音だったのだろう。とてもわかる。私もきっとそう思う。強いけど弱い。強いようで本当は弱いから。痛いことが嫌いだから。私もだよおばあちゃん。身体は辛かったよね。
おばあちゃんの顔の周りに花を供えた時にふわりと「あっちの世界でもおばあちゃんらしく元気で生きてよ!」と思ったあの時の気持ちが再び湧き起こった。
多分おばあちゃんは、どこの世界に行くかはわからないけど、たぶん行き着いた世界で、生前のように周りに敵をたくさん作りながらも(笑)言いたいことを言ってやりたいことをやって、不満を口にしながら過ごすんだろうなって。というかそうであってくれと。きっと今生ではやり残したことがあるような気がする。私たちを守るというよりも、今生でできなかったこととか、向こうでやれることをまた見つけて、今度こそ夢中になってやってほしい。それが無理なら、すぐに生まれ変わって幸せになってほしい。
そういえば…おばあちゃんは幸せだったのだろうか。ふと思う。幸せそうに見えたことは実はあまりない。笑っている姿をあまり見たことがないからだ。いつでも、「〜だったら」という希望や、「今の人たちはいいね」とか、今思えばどこか後悔なのか何なのか、憤りを抱えていたように思う。きっとそれは時代のせいなのだと推測するけれど、そのあたりの話をすればよかったなと思う。
話は戻るけれど、実は寂しがりやだし、たぶんひとりで死んでしまうことも怖かったと思うから、私たちのことをまだ見ているような気がする。悔しそうに。「あんたはええね、若いから」これも何度も言われた気がする。やっぱりいつまでも若くありたかったのだろう。自分の人生を顧みずに、子育て、孫育てで必死だったおばあちゃん。生まれた時代が違えば、キャリアウーマンや仕事人になっていただろう。やり残したこと、やれたことがたくさんあったはずだ。
きっとそうだと思ったから、泣くよりも前に、おばあちゃんの違う世界での未来にエールを送りたかったんだ。もし生まれ変わったら、その瞬間から幸せな時代に生まれて、輝く人生を歩んでほしいと思った。さっきの話の答えになるけど、私の目にはおばあちゃんは幸せそうには映っていなかったからなのかもしれない。そんなことはない、と言われそうだけれど、私の記憶の中のおばあちゃんは、いつも何かに怒っていて、何かに囚われていたように見えていたから。次の人生を与えてあげてほしいと強く思う。
でもこの感覚はあながち間違っていないような気もしている。私は誰よりもおばあちゃんを知っている自信がある。それは小さな頃から、おばあちゃんの話をたくさん聞いた(聞かされた)のは私だからだ。
そのおばあちゃんの話を真剣に聞いたのもきっと母や叔母よりも私だ。
おばあちゃんに理論的に反発して言葉を返したのも間違い無く私だ。
私が一番おばあちゃんを知っている。
できればもう話したくないって思うほどに、話をした。
そして、私にこの声を与えてくれたのは間違いなくおばあちゃんだ。
歌を好きにさせてくれたのも、厳しい業界で負けず嫌いを発揮しながら生きられているのも、全部おばあちゃんのDNAだ。覚醒遺伝だ。
それを自覚した時、涙が止まらなくなった。
楽しい思い出は多くはない。だからこそ寄り添おうとしたし、だからこそ知っていることがあまりにも多い。
それは結果的に楽しい思い出にはならなかったけれど、誰よりもおばあちゃんを知っているという点では、変な自信が生まれた。
これもきっと、おばあちゃんの負けず嫌いを受け継いでいる証拠だと思う。
ありふれた「おばあちゃん、今までありがとう」はどうやっても浮かばない。
それは、お別れだとは思っていないから。冷たくなったおばあちゃんの身体に、おばあちゃんは居ないことに気づいたから。どこにいるからわからないけど、なんとなく思ったのは、おばあちゃんは私の中にいる。だから寂しくなかったし涙も出なかったんだ。合点がいった。
これが「人が死ぬ」時の答えなのかもしれない。
姿形はなくなるけれど、魂は生き続けるということの意味。
私はこれから、おばあちゃんのパワーを伴って生きていく。
もっと強くなるし、もっと負けず嫌いになるし、もっとパワフルになる。
これまでどんなに頑張っても生まれなかった自信が、不思議と湧いてきた。
おばあちゃんと一緒に生きる。
怖いもんなしだ。
でも。
もしかしたらやっぱり。
「私は死にたくない!死んでたまるか!」とか、「良い思い出が30%しかないってどれだけ私があんたを可愛がったと思っちょるんかね!?やり損じゃ!!」って言ってる気もする(怖)。
でももしそう言ってきたら言い返すよ。
「そりゃそういーね!どんだけ子供の頃からキツいこと聞かされたことか!私はどっちの味方でもない!どっちも好き!おばあちゃんに私の気持ちは伝わらんじゃろうね!いつだってそうやん。けどどんなに腹が立っても、おばあちゃんに感謝しとる気持ちは変わらんよ!」
ってね。
おばあちゃん、私の方が長く生きるのを悔しがらないでね。というか私まだ36年間しか生きてないし。
おばあちゃんに似た私は、おばあちゃんの年齢まで生きられるかわからないけど、まだまだ生きるつもりやから。
これからは同じ体で仲良くしようや。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?