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改めて「決起」について知る。

 今年の大河ドラマ「青天に衝け!」は実業家、渋沢栄一を題材にしたもの。ようやくやってきた幕末ターンなので、毎週日曜日が楽しみで仕方がない。前半のキャストが発表されていますが、その中にまだ長州人はいません。ただ渋沢栄一の生涯を描く上で長州人は外せないと思うので、今後のキャスト発表が楽しみです。

 さて、そんな渋沢栄一と面識があるのかないのかはわかりませんが、長州藩には幕末の風雲児と謂われた高杉晋作という維新志士がいました。歴史の教科書にも出てくるので、吉田松陰の次に長州では有名な人ではないでしょうか。(それとも伊藤博文かな、初代内閣総理大臣だし)

 高杉晋作という人物について全てを書くと夜が明けてしまうので割愛しますが、彼の人生を知ることで、今年のレノファ山口FCの心意気を二倍三倍と感じることが出来ると思うので、少しだけ触れてみたいと思います。

 大まかな生涯についてはこちらを。

 今年のレノファ山口FCのスローガンは『決起』です。スローガンが発表された際、渡邉監督の口から高杉晋作の名前が出てきたので、やはり歴史に基づいて考えられたものなのだなと思いました。決起集会や決起会など巷でよく使用されるありふれた言葉ではありますが、山口県の歴史を振り返った時にこの『決起』という言葉は特別なものがあります。

 時代は幕末に遡ります。長らく鎖国をしていた日本は、突如、浦賀に現れた見たこともない大きくて超強そうな黒船に乗ったアメリカ人のペリー提督に「開国してくださいよ~byラーメンズ」と迫られます。それから2年後、今度は初代駐日総領事ハリスが来日し、「貿易しましょうよ~」と言ってきます。恐れ慄いた江戸幕府はこの後、日本にとっては実に不平等な日米修好通商条約を結ばされます。この外国に対して臆病な姿勢をとる江戸幕府に対して不信感を抱き、このままでは清のように日本も乗っ取られ植民地化されてしまうのではないだろうかと危機感を募らせた人々が、最終的には倒幕という一つの目的を成し遂げ、更には外国に支配されない新しい日本を創りあげたのです。これが明治維新ですね。

 思い切り端折っていますが、1853年のペリー来航あたりから、大政奉還の1867年までの間、色々な考え方の人たちが溢れ、それは日本国内はもちろん、一つの藩内でも派閥を生みました。今でこそ長州藩は、薩摩藩や土佐藩とともに明治維新を成し遂げた藩だと謂われていますが、この十数年の間、倒幕をして新しい日本を創りたい『正義派』と、江戸幕府に恭順する『俗論派』という二つの派閥で争っていました。正義派の主な人物は、吉田松陰をはじめ桂小五郎や高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、松下村塾の塾生をメインとしながらその思想に惹かれた人たちが集まりました。対する俗論派で有名なのが椋梨藤太です。

 正義派は、先述した通り「このまま幕府に政を任せていると、日本は欧米をはじめとする諸外国に攻められ、植民地とされてしまう。外国は想像を超える発展を遂げており、もはや勝つ術はない。どうにかせねば」という思い、考え、思想のもと、活動をしていきます。その活動は清く美しいものばかりではありません。きちんと歴史を捉えると、残酷なこともおそらくたくさんしていますし、多くの犠牲も伴っています。だからこそ、歴史を振り返った時に「これが正しかった」などとは言えません。ただ、今私たちがこうして現代の日本で息をしているのは、彼らの活動、行動があったから。それは紛れもない事実です。

 話が逸れましたが、幕末後期、長州藩内では正義派vs俗論派の戦い、所謂内乱が起きます。これは、二分していた藩論を統一することが目的でした。

 正義派(攘夷派)だった高杉晋作や久坂玄瑞、また桂小五郎らはこの当時、攘夷(外敵を打ち払うこと)運動を行っていました。外国船に砲撃する、などそれはそれは過激な方法も執っていました。朝廷にも攘夷をするよう働きかけていたのですが、これをよく思わなかった薩摩藩と会津藩が手を組んで、長州藩を京都から追い出します。八月十八日の政変ですね。要は、長州藩は過激すぎて鬱陶しい、危険であると判断されたのでしょう。しかし長州藩としては、全て日本の未来を思ってやってきたこと。だから「良かれと思ってやってきたのに、なんでわしらが追い出されんにゃならんのじゃ!」となり、こっそりと京に入り様々な攘夷派の志士たちと会合をしていました。そこで「御用改めである」です。新選組の襲撃によって多くの有能な長州人をはじめとする攘夷志士たちが亡くなります。

 この池田屋事件を受け、「もう我慢ならん!」と兵をあげたのが来島又兵衛。京の御所で、薩摩藩や会津藩、そして桑名藩と戦いになります。しかしこれにも敗れ、御所に向かって刃を向けた=朝敵とされ、長州を討伐せよと勅命が下ります。これが、禁門の変です。

 さて、この戦を仕掛けたのは長州藩内のどっちですか?正義派?俗論派?正義派ですよね。俗論派からしてみればどうでしょう?とんでもないことをしやがって!粛清してやる!となりますよね。自らの行いが正義だと信じて行動してきた正義派の面々は、藩内で命を狙われる存在となります。よく桂小五郎のことを「逃げの小五郎」と言いますが、桂はこの時、超逃げていたそうです。

 高杉晋作もそうです。高杉は禁門の変には最後まで反対をしており、当時は萩で閉居中だったため参戦していません。来島のおっさんはこの反対を押し切り、猪突猛進で京に攻め入ってしまい、高杉は終ぞそれを止めることができませんでした。しかし高杉自身も過激な正義派(攘夷派)には変わりはありませんので、俗論派から命を狙われます。高杉は身の危険を察し、九州に亡命。平尾山荘(現福岡県)過ごしたという話は有名です。しかし、正義派がどんどん捕えられ粛清されているという話を聞いた高杉は、もうこれは俗論派(藩政府)を倒す以外道はない。このままでは松陰先生の志を受け継ぐこともできない。今こそ立ち上がる時ではないだろうか―――高杉は長府に戻り、藩論を「倒幕」に統一すべく自身が創設した草莽崛起を象徴する隊、奇兵隊を率い、命を懸けて『決起』するのです。そう、これが功山寺決起(挙兵)です。

 挙兵時の正義派の兵の数は、奇兵隊、力士隊、遊撃隊などの面々合わせてたったの84人。かつての仲間達も、このタイミングでは同意してくれなかったんですね。対する俗論派(藩政府・長州藩本体)は3000人を超える兵。勝てると思います?勝っちゃうんです。戦いを重ねるうちに、次々と高杉の声かけに応じなかった奇兵隊をはじめとする諸隊が合流し、遂に俗論派は失脚。高杉のたった一人での決起は、藩論を覆すことに成功。ここから時代は一気に明治維新へと突き進んでいくのです。

 決起という言葉は、辞書によると「決意して立ち上がり、行動を起こすこと」とあります。しかしこう見ると、長州に於いてこの言葉は、命をも懸けた、決意という二文字では到底語ることのできない特別な言葉だと捉えています(私は)。異国の脅威に怯むのではなく、異国と対等に渡り合える国にするぞ。そうしなければ日本は終わりだ。だから今こそ決起するのだ。

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 どうして国の為にこうまでして戦えたのでしょう。命まで懸けることができたのでしょう。現代を生きる私には、そんな勇気も心意気も正直なところあるとは言えません。しかし、今の自分の境遇と置き換えるとどうでしょう。この山口の地に、サッカー文化を根付かせる、心身ともに豊かな県にする。また、Jリーグが掲げる『Jリーグで地方創生』。高杉が当時、日本を良くしようと思って立ち上がったのと同様に、そしてその先に(彼自身は病死してしまいますが、志を繋いだ人たちによって)念願を叶えた未来を思えば、J1昇格も、またサッカーというコンテンツを用いての山口県の活性化も夢ではないと、私は思います。

 Jリーグ公式映像(DAZNで配信)に携わっているひとりとしては、高杉が長州を超えて日本について憂いていたのと同様に、レノファを超えてJ2リーグを、またJリーグ全体について、更に言えば日本代表がワールドカップで優勝するにはどうすれば良いかまで考える身であるとも思っています。今年もコロナ禍での開催となるJリーグ。しかしこんな状況だからこそ、その存在により感謝しながら、本質を磨いていける。まさに今こそ、決起だなと感じています。

 終わりに―――。長州藩の歴史について雑に記しましたが、歴史にはいろいろな見方があります。どこかがヒーローになれば、どこかが悪役になる。それは長州藩内の正義派、俗論派についてもそうです。俗論派にだって俗論派なりの正義があったでしょう。もっと視野を広げれば、新政府軍と旧幕府軍にしてもそうです。どちらにも正義はあったはずです。だからこそ本来は、ヒーローも悪役もいません。先人たちが、その道が最善だと思いながら生きた道(人生)です。未だに歴史が生んだ遺恨が残っている、と聞くこともありますので、もしかしたらこのnoteの内容についても「おもしろくない」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。ただ、歴史は押し付けるものでなければ、主張すればいいというものでもないと思っています。時に、過去に生きた人たちの人生、すなわち歴史が、背中を押してくれる。今を打開するヒントをくれることが往々にしてあるのです。形は違えど難しい時代を生きてきた先人たちの知恵を拝借し、高杉のように「おもしろくもない世の中をおもしろく」生きたいと思っています。

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