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障害を〈文化〉として捉えること、〈個性〉として捉えること、の違い

障害は個性である」という見方をする人がいる中で、私自身釈然としない部分があった。〈障害と子どもたちの生きるかたち:浜田寿美男〉の本の中に、「個性というのはあくまで個人の特性にかかわることで、そこからは人どうしが生きる、その共同的な生き方が見えてきません。」と言い、文化とは人びとの生きるかたちのことで、人それぞれが背負った生きる条件に応じで生きていくしかない人たちが作りあげる文化であることを言っている。

 
重度重複障害児者のAT(Assistive Technology)コミュニケーション支援機器の法人を運営し、超重症児を育てる私は、コミュニケーション手段には多様性がありながらも、言語以外でのコミュニケーションが成立しない難しさは、受け取り側の問題であり、発信側の問題だけで片付けるのではなく、そこには国籍や人種などの文化、歴史が背景にあるのではないかと考え大学に戻った。
 
 〈障害と子どもたちの生きるかたち:浜田寿美男〉の中で、自閉症のたかし君が周りの人と上手くコミュニケーションを取ることができない事例を挙げていた。彼はコミュニケーションを取ることができないのではなく、彼のコミュニケーションの仕方を一つのコミュニケーションとして社会が肯定することができれば、この世界での彼の生きにくさはなくなるであろう。

では、我が子はどうであろうか。

24時間呼吸器をつけ超重症児と言われる彼女は見た目から「何もできない」「わかっていない」と判断されることで、彼女なりに発信する少しの動きも、周りの人はそこからコミュニケーションが生まれることを期待せず、コミュニケーションを取ることができない人、として扱うのである。つまり、社会生活においてはコミュニケーションが取れないことから排除されるのである。しかし、テクノロジーを活用することで、代替えコミュニケーションを可能にすることができるが、それも受け取り側の知識と受け取り方でコミュニケーションが成立するか否かが左右される。
 
 私たち健康と言われる人間が口から発する言語でのコミュニケーションは、私たちが動物的な状態である時から始まり、社会的状態になるために必要なものであった。言語は社会共同を成立させるために非常に重要な役割を担い、現代の人類を人間として成長させたのである。生活と共同を通じて拡がる社会共同の中でコミュニケーションは生活を豊かにするツールであり、人間の発達保障にも繋がった。
 しかし、様々な身体状況の人がいる現代において、口からの言語だけが社会共同を生み出すということは、その手段を持ちえない人たちは排除されていく仕組みとなっていき、その手段も習得するまで社会参加をすることができないということになる。
 耳の聞こえない人たちが手話でコミュニケーションを取り社会参加する姿は、現代では珍しいことではなくなっている。音声言語の代用品ではなく、口からの言語と対等な位置にあることを否定する人は少ないだろう。もちろん、当事者たちの長年の社会へのうったえがあり、「言語的少数者」ではあるものの、社会的文化的視点の転換で手話を使ってコミュニケーションを取る人びとたちが生み出したその文化は社会の理解へも繋がり、社会参加へも繋がっている。
 健康と言われる人どうしのかかわりの中でも、相手のバックグラウンドを想像しながら関り理解するとういうのは、日々の生活の中でみんなができるのもではないが、個人の関りとしては十分な異文化の交わりであり、異文化を生きているはずなのである。それぞれが異なった条件を背負いながら生きるかたちを個々に作り上げている文化なのである。それは、国や宗教など種族的な文化の違いなどとは異なり、様々な人間が社会共同をしていく上で、多様な人間の違いを文化として捉えることで、私たち人間は健康と言われる人たち側に引き寄せるための侵略的同化を防ぐことができるはずだが、なぜそれが可能にならないのか。

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「人間」という個体が何を持って違いや差別を生み出すのか。もしも人間が人類で何か一つ欠けている状態であったら、私たち人間は人間以上の人類生命体に支配されている個体であったかもしれない。 そんなことを考えながら大学で学び直しをし書いているレポートの一部をここに書いています。

重度障害児を育てる親として、重度障害児者を支援する法人の代表として、自身の脳内整理のための日記。

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