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へその緒のような絆

息子を幼稚園に迎えにいく時。

息子は私に気がつくと、そのときやっていたことを間髪入れずにやめて、走ってかけよってきて抱きついてくる。どんなに楽しそうに遊んでいた途中でも、友達としゃべっている途中であっても関係ない。息子は「母ちゃん以上に大事なものなんてないんだよ」ということを全身で表現している。


その瞬間が、たまらなく好きだ。


高い高い声で「母ちゃん、会いたかったよ」「母ちゃん、さみしかったよ」「母ちゃん、恋しかったよ」と言う息子のシンプルな愛の言葉が胸に響く。

家に帰って「今日幼稚園で何したの?」ときくと「そんなことより、いっしょに遊ばない?」とまるでナンパするときのような口調で私を誘ってくる息子が愛おしくてたまらない。


どうしてこんなに私のことを好きなんだろうかと疑問に思うくらい、私のことを好きな息子。

私はイライラしてしまうときもあるし、ついつい怒ってしまうときもあるし、適当に返事しちゃうときもあるし、息子が好きな戦いごっこにはほとんど付き合わないし、そんなに大好きでいてくれる理由がわからない。

 

いや。きっと理由のない「好き」なんだ。

今そう思った。


そして私も私のお母さんに、そんな感情を今も持っていることに気づいた。もう大人だし私は日本人だし恥ずかしいから、面とむかって愛の言葉なんて言わないし、スキンシップもとらないけれど。

○○なところが好き、とか、○○をしてくれるから好き、とか、そういうものではなくて、「好き以外ありえない」という感じの好きなのだ。たとえ何かあって、何かされて、何か言われて、悲しかったり怒りがわいてくることがあったとしても、それが理由で心の底の底の底から嫌いになることはない。そういう類の「好き」なのだ。


この「好き」は、お母さんのお腹の中からはじまるんだと思う。


お母さんの一部と、お父さんの一部がくっついて、お母さんの体の一部として10ヶ月生きる。お母さんが食べたものを食べ、お母さんが感じたことを感じ、お母さんが聞いたことはすべて聞く。魂といわれるようなものがいつ赤ちゃんに宿るのかはわからないけれど、お腹の中の赤ちゃんはまぎれもなく「お母さんの一部」なのだ。


それはきっと、へその緒を切ったあとも続いていく。


もしかしたらだけれど、へその緒を切ってまだまもない幼い子供たちは、肉体的に切られたへその緒を通して栄養を運ぶことはもちろんできなくなったけれど、目に見えないへその緒のようなものが残っていて、それを通してお母さんが感じていることを感じることができるのかもしれない。実際に息子は赤ちゃんの頃、私がイライラしているときにはよく泣いて、私がゴキゲンのときにはよく笑った。


肉体的に切り離されていても、きっとずっとつながっているんだと思う。


私が自分の太い足を、大きなお尻を、飛び出たお腹を、小さい胸を、低い鼻を、たとえその目に見える形を気に入っていなかったとしても、大切であることには変わらないのと同じように。

お母さんにとって子供は、子供にとってお母さんは、自分の一部であって、どんなときでも大切であり続けるんだと思う。


そしてこれから息子は、私以外にも大切なものをたくさんたくさん見つけて、いずれは離れていく。

それでも、見えないへその緒を通して、私は息子の幸せを願い続ける。息子はきっと私の幸せを願い続ける。

それは、私が私の幸せを願い、息子が息子自身の幸せを願うことと同じように思うのだ。



どんな人も見えないへその緒を持っている。

今生きているということは、相手のことを自分のことのように感じて過ごした時間が少なくとも10ヶ月はあったということだからだ。

相手のことを自分のことのように感じられる心。

それはきっと、見えないへその緒によって育っていき、そこから愛はひろがっていく。


息子はこれからきっと、へその緒のような絆をたくさんの人と結んでいくはずだ。そのスタートになれたことが、私は嬉しくて仕方がない。


今はまだまだ、まるで見えているかのように太いへその緒。

息子がどんどん大きくなって、そのへその緒がだんだん消えてしまったかのように見えなくなるまで、私は息子のそばで今この瞬間の幸せをかみしめていたいなと、幼稚園に迎えにいくたびにしみじみ思ってしまう今日このごろなのであった。

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