小学校の教科書に載ることは名誉?
私には大学生のころから
ずっと気がかりだったことがある。
自分の論文が小学校の教科書に載ることは、
学者にとって喜ばしい出来事のだろうか?
「君の研究は小学生レベルだねww」と突きつけられているような気がしていたからである。
大学に通った経験がある人ならば、
卒業論文を書く機会があるだろう。
私も自分の好きなテーマの論文を書いた。
「分かる人にだけ面白さが届けばいい」と、
ありとあらゆる言葉遊びを弄しながら作った、
22年間の好奇心の集大成の論文である。
その論文が学問を追求する同志にではなく、
娯楽の頂点がフルーツバスケットだと
確信している小学生たちに読まれたら、
どんな気分になるのだろう。
私なら君たちに何がわかるのかな?^^
と嫌味たっぷりの年賀状を送りつけてしまう。
たくさんの子どもたちに自分の考えが届くから嬉しいのか、と考えたこともある。
小学生の国語で記憶にあるのは、ごんぎつねや
モチモチの木のような小説ではなかろうか。
必死に思い返してみたが、思い出せたのは
「アップとルーズで伝える」と、
「すがたをかえる大豆」という作品である。
ゆっくり考える機会もそうそうないので、
25歳の日曜日、作者について検索してみた。
ここで長年の疑問に終止符が打たれた。
「アップとルーズで伝える」の作者は、
学者を経てNHKに入局されている。
「すがたをかえる大豆」の作者は、
この説明文だけでなく大豆の絵本を出版され、
さらには各小学校を飛び回っている。
このお二人に共通していることは、
小学生への発信に精力的だということである。
研究を自分の興味だけで昇華させず、
誰にでも分かる伝え方に変換されていたのだ。
子どもたちへの教育を生業にしている私は、
だれにでも伝わる言葉を使うことが、
いかに難しいことかをよく知っている。
大学の卒論は、検閲が教授だったからこそ、
うがった視点や奇を衒った言葉選びを
雄弁にふるうことができていた。
読み手への信頼が前提にあるのが卒論だった。
あの卒論に「小学生でもわかるように」
という条件を添えられていたら、
きっと私はまだ留年を重ね、
今なおバイト先で七輪づくりに励んでいる。
小学生の教科書に載る説明文を作る人は、
ある種日本語の頂点に君臨するような、
言葉選びの達人といえるのかもしれない。
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