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「今年の映画ベスト10」って、皆さん、どんな基準で選んでいるのだろう。


「良い映画」の基準とは

年末のこの時期には、多くの方が、色々なジャンルで「今年のベスト10」といった情報発信を行っていて、そうしたランキング自体にはあまり興味を持たないのだけれど、「どのような基準で、それを選んでいるのだろう?」ということには少し興味がある。

「今年の映画ベスト10」ならば、それはつまり「今年観て、良かった映画10本」のことであろうが、その「良さ」とは、そもそもどのような基準からの「良さ」なのだろう

想像するにおそらくは、「感動した」「笑えた」「泣けた」「興奮した」「ほっこりした」「考えさせられた」「(映像が)美しかった」などの諸要素があり、それらによる総合的判断だろうと思いつつ、とはいえ、映画には「アート系」「社会派」「コメディ」などいろいろあるわけで、そう考えると一口に「映画のランキング」といってもそれは「芥川賞」と「日展」と「M-1」を一緒にやってるような「異種格闘技」感があったりもする。

ここでもし自分が「ランキング」を作るとしたらどんな基準で選ぶのかと考えてみたのだが、結論を言ってしまえばそれは「心を揺さぶられた度合い」という事になる。これに当てはまるちょうどよい「熟語」が見当たらないのだが、単なる「感動〈*1〉」ではなくて(そもそも最近は「感動」という言葉が安っぽくなってしまっていて使いたくない)、強いて言えば喜怒哀楽などの「すべての感情(または情動)の振れ幅の大きさ」といったことなのだが、「心を揺さぶられる/心を動かされる」以外に、ぴったりくる日本語がない。

調べたところ、英語では「soul-stirring」という言葉があるらしく、逐語的に訳すと「魂が攪拌される(かき回される)」という意味になり、ネイティブの英語話者でない私には確信は持てないが、これが日本語の「心を揺さぶられる」に近いのかもしれない。(ちなみに「move」という英単語にも「心を動かす、感動させる」という他動詞の用法がある。)

ところで、私にとって「心を揺さぶられる」ことは、必ずしも映画作品の「メッセージ(=作家が伝えようとしている、何らかの主張。多くは道徳的倫理的、あるいは政治的、もしくは社会正義に関わる主張)」と直結しているわけではない。

特段に「メッセージ」など無い映画でも、心が揺さぶられることは、いくらでもある。逆にその「メッセージ」が陳腐であることで興が削がれることもある。一部の批評家やシネフィルたちは、映画作品の評価の際にはそれに込められた「メッセージ」と完全に分断して映画作品を評価することを是とする向きもあるようだが(そして私にもそういった志向が無くはないが)、とはいえ私自身はそこまで極端ではなく、その「メッセージ」に私が強い共感を抱いた場合は、もちろんその映画をポジティブに評価する一因にはなるし、その逆も然りである。

一応書き添えておくと、私自身にとっての「心を揺さぶられる映画」のもっとも重要な要素は、「見事なショットがあること〈*2〉」なのだが、もちろんこれも人ぞれぞれであろう。

「映画はプラカードではない」の意味するもの

ちなみに、「メッセージ」に関連して少し余談を記すならば、少し前にSNS上で「映画はプラカードではない、映画の出来としてどうかだ」との言葉を見かけたのだが、おそらくこれは、黒澤明による「何がテーマだなんて、簡単に言えるならこんな苦労をして、映画なんて創らないよ。一言で言えるなら、プラカード持って町を練り歩くさ」との発言を起源に広まった言説であろうと推測する。

(一次資料は見つけられなかったため確かなものではないのだが)黒澤は「(自作の)テーマ」について質問されることを嫌っており、「聞かれても、映画のテーマなど簡単に答えられるものではない」ということがこの発言の主旨だと考えられる。

この黒澤の「プラカード」の話については、大林宣彦が語っている講演録をネットで読むことができる。

大林 おそらく『花筐/HANAGATAMI』が真に必要なのは、大人ではなく、今後、新しい戦争を迎えるかもしれない僕らの“子供たち”なんですよね。ただこれは、反戦の映画ではない。厭戦です。理屈を超えて戦争なんてイヤだという映画。これも黒澤さんに教えてもらったんですが、「俺たちは表現者だから、プラカードは担がないよね」と。「プラカードを担いで何かもの申そうとするならば、僕らが運動家になるか政治家になった方が早いよ」とおっしやっていた。それを僕流に言い直せば、戦争という狂気に対して、僕たちが表現すべきなのは人間の正気だけなんだと。
(*太字強調は引用者による)

https://todorokiyukio.net/2020/08/29/7288/

私自身は、ここで語られている映画は未見なのだが、大林自身が「反戦の映画ではない。厭戦です。」と語っているように、何らかの「戦争に関するメッセージ(自身の立場の表明)」が込められていることは間違いない。

おそらく「映画はプラカードではない」との言説は、少し前にネットを賑わした「音楽に政治を持ち込むな〈*3〉」のような、「映画を(倫理的・政治的な)メッセージを伝える道具として用いるな」といった意味ではない。

黒澤の言を私なりに解釈するのであれば、映画や文学作品に作家が込めた「思い」は、「1枚のプラカードに書けるようなシンプルなこと」では無いといった意味だったのだと思う。それを単に「映画にメッセージは必要ない」と短絡的に断じてしまうことには、私は首をかしげざるを得ない。(とはいえもちろん、逆に「メッセージの良し悪し=映画の良し悪し」のように直結しないことは、先に述べたとおりだ。)

シンプルに「心が揺さぶられた」かどうかが私にとっての「映画の良し悪しの基準」だとすると、映画の「メッセージ」は、作品の「良し悪し」につながる一つの要素ではあるが、それ以上でも以下でもないということになる。

「映画の価値評価」について

ところで、こうした映画の「評価」に対して、アカデミアではどのように論じられているのかに興味をもって少しだけ調べたのだが、手元にあった『フィルムスタディーズ入門』という書籍に、少し参考になりそうな記述を見つけた。

その本の「映画評論」に関するチャプター(P.209-)の中で、著者であるウォーレン・バックランドは、「映画の価値評価について、評論家は一般に『製作上の動機付け〈*4〉』、『娯楽的価値』、『社会的価値』から、その映画の価値を評価する」と述べている。

上記の「娯楽的価値」「社会的価値」は、比較的分かりやすい「字面どおり」の意味でとらえておそらく問題はなく、敢えて雑駁に言えば「エンタメ系」と「社会派」の映画に、それぞれ呼応しているといってもよいだろう。

もう少し具体的に言えば、以下に示すように、「エンタメ系」でも(これも雑な分類だが)「ヒューマン・ドラマ系」と「スペクタル/アクション系」で価値評価基準は異なっており、そして「社会派」については取り上げた社会問題自体の重要さや、それを(他作品に先んじて取り上げた)先見性とジャーナリスティックな視点自体が評価基準となっているようにも読める。

第一に、映画作品の娯楽性が高いということは、観客の注意を上手に引き付けて離さず、彼らのエモーションをかき立てられるということです。これを達成するための一つの重要な方法は、観客を促して映画作品内の一人の登場人物、あるいは一まとまりの登場人物たちと同一化〈*5〉させることです。
(略)しかしながら次のように答えることもまた等しく可能です。すなわち、映画作品の娯楽性が高いということは、観客をジェットコースターに乗った気分にさせ、彼らの度肝を抜き、神経組織にショックを与えることだ、と。 重要なのは、映画作品が観客の注意を引き付けて離さなかったり、彼らのエモーションを引き出したりできるかどうかではなく、観客を圧倒できるかどうかということです。登場人物の複雑な心理と物語および語り口の構造は重視されず、スペクタクル(常識外れのアクション・シーンや特殊効果)と音響(騒々しい爆発音やステレオ・サラウンドなど)ばかりが強調されるのです。

『フィルム・スタディーズ入門』ウォーレン・バックランド(晃洋書房) P.223-224

娯楽的価値とは正反対に、映画作品が重要な社会問題を描くなら、映画評論家は積極的にその作品を評価するでしょう。そうした映画作品のなかで時代を通じて偉大なものの一つ、ジロ・ポンテコルヴォの『アルジェの戦い』(一九六五年)は、フランスから独立するためのアルジェリアの戦いを描くフィクション映画です。時折ハリウッドの映画作品は、ジョナサン・カプランの『告発の行方』(一九八八年)でのように集団暴行の被害者のトラウマといった普段は議論されない社会問題を描くことがあります。

『フィルム・スタディーズ入門』ウォーレン・バックランド(晃洋書房) P.223-224 P.224

ここであげた、映画の「価値」についての分析フレームは、映画に限らず多くの大衆文化(ポップ・カルチャー)にも当てはまるように思われる。

おわりに

映画の「年間ランキング」について、多くの人は、独自の項目による採点表などで決めているわけではなく、一年を振り返ってあれやこれや思い出しながら、楽しみながら感覚的に選んでいるのだと思うし、それでよいのだと思う。
もし定量的に測る方法があれば、「作品を見終わって席を立った瞬間の気持ち(情動〈=エモーション〉の高ぶりや心理作用)の度合い*6」が対象になるのかもしれないが、現在のところの私たちはそのような計測器を持ち合わせていないし(そのうちスマホアプリで計測できるようになったりしたら、それはそれで恐ろしくもあるが)、その時の自分の「心の動きの度合い」を、記憶を頼りに映画体験を反芻しながら作品を選んでいるわけで、それもまた素敵な「映画の楽しみ」の一つであるのは間違いない。

(了)

*1
ナチスのプロバガンダ映画の例を引くまでもなく、安易に娯楽作品の「感動」に身を委ねることは危険をはらむことも、我々は歴史的事実から学ぶ必要がある。

ナチスが映画を最強のプロパガンダ装置と位置づけたことはよく知られている。娯楽産業の最大の生産地であるハリウッドも戦時下には、古典メロドラマの名作として知られる『カサブランカ』で第二次世界大戦へのアメリカ参戦の必要性を説き、多くの戦意高揚映画のミュージカルを作った。映画研究が教えてくれるのは、大衆娯楽が常に社会や政治的無意識と深く関わり、感動はしばしばイデオロギーのもっとも有効な媚薬であったことだ。
(略)
例えば、最近のヒット作『永遠の0』の中で、いかに伝統的な家族像が繰り返し現れ、家族や国家の犠牲となった尊い命というメッセージが古典的ヒーローを再生産しているか。一方、戦後のイタリアで作られたネオリアリズムと呼ばれる映画群は、ファシズムが好んだヒーローを否定することから始まった。『永遠の0』と一九五四年に公開された黒澤明の『七人の侍』を比べてみよう。一見では、ともにヒーローを描いているように見えるが、感動のプロパガンダと、芸術がもたらす陶酔と覚醒との違いは明白である。

「現代を斬る | 複製技術時代の芸術が教えてくれること」斉藤綾子(明治学院大学)
https://www.meijigakuin.ac.jp/about/mg_plus.20160804/06/

*2
「見事なショット」については以下note記事参照のこと。

*3
さらに横道にそれるが、「音楽に政治を持ち込むな」といった一部の「音楽ファン」の主張に対して、「生きていることすべてが政治なのだから、何を歌っても政治を歌っているといえるのだ」といったもっともらしい「反論」もあるが、その論に対してはさらに、フォークシンガーの中川五郎が「むしろもっと積極的に自分の信じる政治を歌えばいいじゃないか」と異を唱えている。とはいえ一方、「政治的なメッセージ」が含まれていることが「音楽作品として優れている」ことを意味するものではないことは、もちろんである。

井上 音楽と政治でいえば、何年か前にフジロックで「音楽に政治を持ち込むな」というのがありました。
中川 それに関して必ず返ってくる答えは、どんな表現をしようとすべて政治だよって。それは逃げている感じがして、僕自身としては積極的に政治を表現したいという気持ちは歌い始めたときから今現在も持っている。ただ積極的に政治を歌うとなるとメッセージやプロパガンダみたいになる。でも僕はもうちょっとひろい豊かな形で政治を音楽で表現できたらと思っている。
とにかく自分たちの暮らしを歌っても世のなかのありようを歌っても全部政治だって考えには抵抗を感じる。
むしろもっと積極的に自分の信じる政治を歌えばいいじゃないかと思うので、日々のつましい暮らしを歌っていたらそれが政治なんだよ、みたいになるというのはそれはないんじゃないかなって思う。すごく具体的ではなくて、歌や演奏それ全体で広い形で政治を伝えられればいいな、と思う。

映画『福田村事件』パンフレット P.14-15

*4
「同一化」はシンプルに定義するのが困難な用語ではあるが、日本で多く用いられている言葉では「感情移入」が近いかもしれない。研究者によれば、これ(同一化)は「観客の快楽の基盤をなしてい」るとのことだ。
なお、ここでの「同一化」は「登場人物への心理的な共感が、同一化を生む」のではなく、「(映像的な技術によって“強制的”になされた)同一化が、結果としての共感を生む」のだという。このことは、映画や映像に接する際のある種のリテラシーとして覚えておいて損はないように思う。

同一化という言葉はきわめて広範かつ頻繁に用いられ、それは通常の、やや漠然とした語義にそって、主に観客が映画作品の特定の登場人物との間で結びうる主観的な関係を表す用語として定着していた。したがって、この同一化という言葉は、かなり不明瞭な心理学的概念を包摂していたのであり、そのことによって、映画観客の経験を説明するための一定の手がかりとなりえたのである。その経験とは、上映中に、特定の人物の希望や欲求や不安といった諸々の感情を共有し、その人の立場になってみる、つまり“しばしの間その人になりきる”という経験であり、あたかも委任を受けたかのように、その人物と一緒に愛したり悩んだりするという経験のことであるが、そうした経験こそが、観客の快楽の基盤をなし、さらにはそれをあらかた条件づけているのである。今日でもなお、映画を見終わった者同士で、 誰に最も肩入れしたかということが話題になったり、映画批評家が作品を論評する際に、そうした登場人物への同一化を拠り所にしたりするようなことは珍しいことではない。
同一化をめぐるこうした通念――きわめて単純化された考え方であるにせよ、それはもちろん映画における同一化のプロセスに関して一定の真実をとらえている――から判ることは、それが基本的には登場人物への同一化を、すなわち他者の形象への同一化、スクリーンに表象された同類者(サングラブル)への同一化を指しているということである。
*太字強調は引用者による

『映画理論講義: 映像の理解と探究のために』 J.オーモン、A.ベルガラ、M.マリー、M.ヴェルネ(勁草書房)P.309

同一化は共感の原因であって、その逆ではないというこの主張は、映画観客の非道徳性と根本的な柔軟性の問題を提起する。巧みに構成された映画による物語では、人格や性格やイデオロギーに関して、実生活では何ら共感を覚えないばかりか、反感すら抱くような人物に観客が同一化して、そこに共感の効果が生じる場合がある。映画観客は警戒心を失っており、物語構造がそれを促しさえすれば、同一化によってほとんどどんな登場人物にも共感してしまえるのである。有名な例を挙れば、アルフレッド・ヒッチコックは幾つかの作品で、本来ならまったく好感が持てないような主人公――金持ちの未亡人を次々に殺害する『疑惑の影』(1943)の中年男、妻殺しに加担してしまう 『見知らぬ乗客』(1951)の青年、勤め先の事務所の金を盗む 『サイコ』(1960)の女泥棒などに観客を同一化させる、少なくとも部分的に同一化させることに成功している。
そうした主張はまた、“良い人物"の性格と行動さえ描けば、観客がその人物に共感し、同一化すると単純素朴に考えるような、"教訓的な”映画が失敗する理由を明らかにしている。
*太字強調は引用者による

『映画理論講義: 映像の理解と探究のために』 J.オーモン、A.ベルガラ、M.マリー、M.ヴェルネ(勁草書房)P.318

*5
「動機付け」とは、デイヴィッド・ボードウェルによる用語で「どのような手続きによって観客は与えられたテクストの要素を正当化する(justify)のか? その要素はどのように して原型に帰され、適切な枠のうちに分類されるのか?」を意味する「動機 づけ motivation」とされる」。これ自体がさらに難解だが、かいつまんで言えば、「物語(シナリオ)の構造や撮影の技法などが、何のために為されているのか」といった「作家の意図」のことだと言ってよいと思われる。
https://www.bigakukai.jp/wp-content/uploads/2021/10/2016_08.pdf

*6
もちろん現時点で科学的な計量が可能となっているわけではないが、映画作家の多くは古くから、この点(情動を誘導すること=心を揺さぶること)に非常に自覚的であったようだ。

言い換えれば、どうすれば映画的表象をもとにして様々な情動(エモーション)を誘導することができるのか、ひいては観客に影響を及ぼすことができるのか、ということである。
本書では既に、特にエイゼンシュテインをめぐってその種の関心を取り上げ、それが彼の理論体系の重要な特徴をなしていることを述べた(第2章「モンタージュ」を参照せよ)。より広範には、そうした配慮は暗黙裏にであれ意識的にであれ、非常に早くから出現し、かつすべての偉大な映画作家の内に見出されるものだと言ってよい。

『映画理論講義: 映像の理解と探究のために』 J.オーモン、A.ベルガラ、M.マリー、M.ヴェルネ(勁草書房)P.277-278

それほど巧みに観客の主情性(エモティヴィテ)に働きかけたのは間違いなくこのアメリカの映画作家*が最初であったが、しかし、その効力をめぐって真に理論的な探究がなされたのはヨーロッパにおいてであった。(略) 実際、フランスやドイツの映画作家や批評家の中には、往々にして、映画が心理的作用をもたらす際の諸手段についての、かなり明確な意識が見てとれる。
*引用者注:D.W.グリフィスのこと

『映画理論講義: 映像の理解と探究のために』 J.オーモン、A.ベルガラ、M.マリー、M.ヴェルネ(勁草書房)P.278


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