2022,大学2年、夏。僕のルーツ

みなさんどうも、笠倉です。
そして笠倉は日本橋の闇金の家系である。

真夏日の太陽も色が薄まり幼き頃には新学期の匂いを感じる頃でしょうか
しかし僕も大学生、人生の夏休みと揶揄される手前、まだまだ気は穏やかだ。

真っ白なフラミンゴを虹色に染めてみせよう

フラミンゴはご存知のように片足立ちをする真っピンクな鳥だ。
ラテン語で「炎」を意味するフラミンゴ、そのため古くからポジティブなエネルギーのシンボルとして比喩されることが多い
軽井沢の森に静静と舞い降りたフラミンゴの両翼は確かに綺麗な白であった。しかし岩に似た家の周りを闊歩する山羊のような均衡がそこにあった。(これが誰のパロティか分かったらDM待ってます。友達になりたいです)

さて本題に入りましょう。まずは状況の整理から
前回私は
・蛎殻町は大名屋敷が広がる武士のベットタウンであった
・江戸時代はインフレ、米価格の低下により武士は困窮していた
との2点から笠倉家が江戸時代の日本橋区蛎殻町で高利貸しをしていたと結論付けましたがもう少し根拠が欲しいところだ。

そこで今回は江戸時代の高利貸しの実態の解明から始めます。

まずそもそも高利貸しとは、辞書の言葉を借りると金銭貸付業者。「質物(担保)」をとらないかわりに短期間の貸付で高い金利をとる、「質貸(質屋)」と並ぶ近世民間金融の主役である。
また江戸には、公的な金融機関はなかった。武士は札差(ふださし)、町人は座頭(ざとう)などの高利貸しに借りにいった。ちなみに札差は旗本・御家人に将来の俸給米を担保にして高利でお金を貸すところで、座頭は盲人(座頭)が高利でお金を貸し付けるところであった。
また経済学上、高利貸は社会的平均利潤を超える金利での貸付と規定され、金利水準は社会的常識を著しく超えたものであった。まああまり褒められたことはしていないようですね。
そした、蛎殻町の武士の収入はお米、そして笠倉家や他高利貸しの担保はお米。なんだかすでに負のループが見えないこともない。

そしてここで初めて登場したワード、札差。
武士相手に闇金していたとなると笠倉家は札差であった可能性が高い

ちなみに札差とは、江戸時代、蔵米取りの旗本御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを業とした商人。取次業の他にその蔵米を担保にして金融業を行い、巨富を畜えた。名の起こりは、蔵米受取人の名を記入した札を蔵役所のわらづとに差したことによる。
また、江戸の蔵前で営業をしていた。
とあった。

ちなみに札差が集まっていたという蔵前は蛎殻町から距離でいうと3キロ強、徒歩30分ほどの街だ。

江戸時代の3キロなんて実質同値なのでは?

ちなみに今蛎殻町が存在するのは水天宮前。
思い返せば水天宮前って僕が中学生の頃仲間内で、地元から秋葉原って一本道でいけるらしいとの噂からママチャリ走らせ、道に迷うも通信制限中のiPhone5cしか持っていないので路頭に迷い、そのへんで寝てたら地元のおじちゃんに煎餅もらったという思い出の地でもありますね。
当時はその街になんの思い入れもなかったのに自分のルーツに関係していると考えると感慨深いです。
ちなみにその後は秋葉原には辿り着けず、小伝馬町とかいう地名を見つけて男4人で大笑いして引き返してきました。

さてここからはさらに札差について深めるとともに笠倉家に関する具体的な情報が欲しい時間帯です。

このnoteでは新情報を整理して載せているので私の苦労が見えないと思いますがここからが一番面倒だった。もう札差だとか蛎殻町、高利貸しのページは大体見てしまった、情報のマンネリである。

やっぱり飽きたしやめようかなと思っていた矢先、世間は成績の公開で騒がしかった。さあ2学期、心も入れ替えたし安心してGPAでも見るかーと呑気に大学のサイトへ学籍番号の入力を済ませ成績照会のページを開くとなんとことでしょう、何か様子のおかしい数値が出ています。僕のフラミンゴの片足も折れました。ああここはパソコンの中だし二進法の世界かな。でも三桁の数字を足すと13です。これは結構高いのでセーフということにしておきましょう。
13はさておき今のままではただの無能になってしまうのでせめて今回のnoteは完成させることにしました。

ネットサーフィンを続けること2時間。ついに有力な情報に辿り着きました。
断腸亭錠志さんという江戸文化愛好家の方の断腸亭料理日記(http://www.dancyotei.com/)だ。

この中の「池波正太郎と下町歩き12月 その7」 (http://www.dancyotei.com/2010/dec/kouza7.html
の中で江戸時代の札差について触れられている。

例えば札差のビジネスモデル
年利一割五分
札差から旗本御家人への貸付利息は年利一割五分と当初決められた。
(実際にはこれに2分上乗せされた17%程度が実勢の利率であった。)
しかし、これに手数料が加えられ、あるいは期限までに
返済できぬ場合の証文の書き換えでの手数料、
1か月分の利息の二重取りなどなど、
札差は様々に儲け口を用意していた。

それだけでなく、札差は元来、収入の保証されている
公務員である旗本・御家人という逃げることのない
安定した借主を抱えている金融業者であり、
これだけで儲かる仕組みを手にしていたといえよう。

現在のアコムの年利が15~20%ほどなので純粋な年利だけなら意外と普通なのかと思ったが多分他に色々取るのであろう、でなければ経済学上、高利貸は社会的平均利潤を超える金利での貸付と規定されない


さらに注目すべきはこの後だ

当時、江戸名代の大金持ちになっていた、札差。

札差の絶頂期は田沼時代である。
俗に「十八大通」と呼ばれる派手な遊びをする
主として札差の主人達がいた。
(『通』とは通人~つうじん~の通である。)
その代表的な姿が歌舞伎十八番「助六所縁江戸桜」
(すけろくゆかりのえどざくら)の助六であるという。

とあるように十八大通と呼ばれる大きな家がいくつかあったという。
そして僕はふらっと十八大通について調べてみることにした。

江戸の十八大通が活躍したのは、宝暦年間(1751~63)から天明年間(1781~88)の頃。その多くは札差(武家相手の金融業)で占められていた。
彼らは義侠心に富み、しゃれっ気があり、吉原遊びに途方もない大金を使う遊び人で、金の使いっぷりが景気良く、男伊達でもあるという、江戸ッ子気質の大尽であった。十八大通に数えられていようといまいと、蔵前の旦那と呼ばれる札差達は色々な遊び芸事に夢中になった。その文芸との関わりは、歌舞伎俳諧のほか、茶番劇・・踊・河東節浄瑠璃一中節・らっぱ等々、多方面にわたった。ことに歌舞伎では興業の援助者であり、役者たちのパトロンでもあった。

そしてなんと十八大通の一覧リストには

見覚えのある文字列が、そう笠倉である


笠倉屋平十郎(有游、札差)


笠倉??しかも札差。これは確定でしょ笑
今普通に人生で一番の達成感を感じております。
「かき」というワードからよくわからん祖先のお名前まで特定する。
ああ自分は無能ではないなと確信するとともにこれがいわゆるネットストーカーかと涙が一筋。

個人特定編 〜完〜




次回 笠倉屋摘発編へ続く






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