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バレエと日本舞踊と即興でつくる舞台「金閣寺」の解説

金閣寺

日々の忙しさにおおわれた心にふと晴れ間がさしたとき、子どもの頃にもっていたあの気持ちを思いだすことがある。それは、一枚の紙にただ耽るように描いた線、ことばにならない他愛もない思いつき・・・。
 はっきりとは思い出せないけれど、そんなものがあったという感触だけはかすかに感じられる。あれから今日へと、そこには同じ時が流れているはずだが・・・、そう思った瞬間にその感触は手のひらからすり落ちる砂のように消えて幻になる。

 金閣寺―活けられる花ー。
 それは一つの苦悩する魂のトレースである。一人の学僧が、自分にとっての美の象徴であったはずの金閣寺に火を放ったという事件をモデルに、今日を生きる私たちの心を照らし出そうとする。

金閣寺放火事件

  1950年、金閣寺が同寺で学ぶ見習い僧侶による放火により全焼した事件。犯人はその動機について「美に対する嫉妬と、自分の環境が悪いのに金閣という美しいところに来る有閑的な人に対する反感からやった」と供述。
三島由紀夫は、同事件を題材にした小説でその経緯を次のように描いている。
「放火者は地方の貧しい寺の息子として生まれた人間で、父から常々『この世に金閣ほど美しいものはない』といわれ、その美しさを夢想しながら育った。一方で自分の容姿と幼少の頃からの吃音(どもり)に悩む彼は、日増しに大きくなる劣等感にさいなまれていくことになる。やがて不治の病で父が早逝すると、遺言で金閣寺の徒弟となった彼は、母のたっての願いもあり金閣寺の住職となることを目指して勉学に励む。
 しかし、師である住職との確執や学友たちとの関係、女性との交わりに思い悩む中で、そのもくろみは段々に破綻していく。深い挫折感を味わった彼は「呪わしい永遠の美」として自分を苦しめることになった金閣に火を放つことを思いたった。」

演者Ⅰ(バレエ)

現代の社会が生み出す一つの典型的な人格で、与えられたレールと評価軸の上を生きようとするが、そこで思うように振る舞えない自分を嫌悪し、不具の自覚と劣等感にさいなまれている人間である。

演者Ⅱ(日本舞踊)

 演者Ⅰの心の中のもう1人の自分のような存在であり、それはあえていうならば彼の心の奥底に隠された本当の希望のようなものである。しかし、それは野に咲く花のようなもので、彼が崇拝している「金閣寺的な美」とはまったく異なるものである(金閣寺的な美を象徴しているのは金屏風という無機質なもの)。

演者Ⅰと演者Ⅱ

 演者Ⅰは自分の心の中に存在するもう1人の自分の存在に気づきながらも、それに対して愛憎共存的な複雑な感情を抱いている。はじめは演者Ⅱを愛おしく想い、その陰りのない姿に恋焦がれる演者だが、次第にその存在のとらえどころのなさと自分の思い描く美との相違に苦悩するようになる。やがて演者Ⅱの存在が自分が生きていくのに不都合な弱みのようなものに感じられるようになった彼は、演者Ⅱを捕らえて自分の美の形にあてはめようとするが、それに失敗する。
 その後、自分の不具をますます自覚するようになった彼は、現実から逃避し快楽の中に浸る日々を過ごすようになる。空回りする欲望の渦の中で自分の心の存在を忘れられたかに思えた演者Iだが、そのはざまで思い出される演者Ⅱへの恋の記憶。やはり演者Ⅱへの想いを断ち切れない彼は、演者Ⅱを1つの花として活け自分の心の中に保存しようと思い立ち、それを実行に移す。だが実際には摘み取られてしまった演者Ⅱはその美しさと引き換えに命を失ってしまい、そこに残ったのは冷酷な時の刻みだけであった。自分の心の内に残っていた最後の灯を消してしまった演者Ⅰは、いよいよ自分の生きる希望を失ってしまい、その悔いきれぬ想いのなかで自らを火に包むこととなる。

1.プレリュード  

 闇の中で海と対峙する演者I。彼の自意識と劣等感を暗示する短い語りがあった後、波の音と月の旋律が聴こえだす。音楽がひとしきり盛り上がると演者Ⅰは闇の中へと姿を消す。

2.耽る思い、春の歌 

 朝の淡い光のなかに現われ舞う演者Ⅱ。その流線的で曇りのない動きは、人が子どもの頃には誰しも持っていたであろう憧れや屈託のない心を表している。

3.焦がれる心

  ヴィオラのフレーズに導かれるようにして登場する演者Ⅰの舞踊。演者Ⅱへの恋心のようなものを表現する舞であるが、その動きには演者Iの持つ「捉われた美」への執着や心の影が見え隠れする。

4.淡い期待、噛み合わない会話

  再び舞いだした演者Ⅱとそれに追随して動く演者Ⅰ。演者Ⅰははじめ演者Ⅱと関わりを持とうと努めているようでありながら、実際には自分の固執的な動きから抜け出せない。
 やがて演者Ⅱの自由な動きに困惑するようになった演者Ⅰは自らの振る舞いを演者Ⅱに教え込もうとする。
 しかし演者Ⅱはそれを上手く理解できずに、両者の動きはだんだんにちぐはぐになる。
 最終的に演者Ⅰは演者Ⅱを自分の美の理想的な型(金屏風)の中に強引におしこめようとするが逃げられてしまう。屏風に張り付く演者Ⅰを、演者Ⅱは怪訝そうに見つめて去ることに。

5.出ぬ声

 独りになった演者Ⅰは自分の失敗を自覚し叫ぼうとするが、自分の声が出ないことに気付かされ、絶望する。

6.繰り返す快楽

  闇の中で短い語りがあった後、人々の足音が聴こえて来ては過ぎ去っていく。その後再び明るくなった舞台で、演者Ⅰは反復的な動作に浸っている。不安を埋め合わせるように休みなく動き続ける演者Ⅰ。
 次から次へと現われては消える欲望に駆り立てられは空回りする日々。時折おとずれるわけのわからない衝動。

7.内なる想い

  享楽に疲れて果て動きが弱くなってきた演者Ⅰは、二日酔い的な時間の中でふと我を自覚し内省的になる。独白的な語りと音楽の中。演者Ⅰは演者Ⅱの姿を思い出しながら眠りに落ちる。

8.活けられる花の舞

  聴こえてくるハサミの音。夢の中で演者Ⅱを切り刻み花に活けようとしている演者Ⅰ。
その意図は、自分が忘れかけている演者Ⅱの姿を保存したいということにある。
 しかし、実際そのハサミの先で吹き出すのは入り混じった複雑な動機。
やはり演者Ⅱを自分の望む形に切り整えたいのか、
もしくは、その陰りない心を憎く思い、
ただただ傷つけたいのか。
 いずれにせよ演者Ⅱは演者Ⅰの行為をなんの抵抗もなくむしろ受け入れ、最後は金屛風の前で硬化する。
活け花の行為が完了し時が凍てついた後、語りと哀歌が奏される。

9.飛べなくなった鳥の踊り、焼身の舞

  目覚めた演者Ⅰ。盲目的に振り返り演者Ⅱをみようとするが、そこにはもう何もない。
そこに聴こえてくるのは無機質な時を刻む音である。
活けられることにより息絶えてしまった演者Ⅱ。
そうして、演者Ⅰはいよいよ自分の心のなかにかろうじて残っていた希望の最後のひとかけらを失う。
 立ち上がろうとする演者Ⅰは自分が傷を負っていることに気づく。
冷酷な時の刻みと、それに足を取られて動けない演者Ⅰ。
じたばたと抗う演者Ⅰの動きは段々に痛々しく激しくなっていく。
燃え立つ焔のようなった演者Ⅰは自分の余力の全てを尽くして舞い、燃え尽きる。

10.死者に手向ける花

 演者Ⅰが地面に倒れ息絶えたあと、静けさの中から形骸化した読経のようなものが聴こえてくる。
その後、音楽の記憶に続いて現われた演者Ⅱが、倒れ伏した演者Ⅰを黙視する。

11.原風景

  花が手向けられた後、時計的な時の刻みがだんだんに巡りを取り戻していく。鐘の音が聴こえ、原風景へと戻っていく舞台。
演者Ⅰが倒れ伏している中で冒頭のシーンが繰り返され閉幕する。

解説

 三島由紀夫は、「金閣寺」の執筆ノートに「主題 美への嫉妬/絶対的なものへの嫉妬」と書いたが、
今日のより高度にシステム化された世界では、
この「永遠の呪詛のような美」は
「計算可能なもの」として、
より一層確立されて私たちに突き付けられているように思う。

 日を追うごとにスマートになっていく社会。私たちはその整っていくシステムを賛美しながら、
同時にその突き詰められた合理性の内側で生きることにどこか不安を覚える。
「わたし」なしでも回るように見える世界。
自分は取り替え可能なのではないかという不安。
そこから生まれてくるのは、
自分が自分にとっても世界の中心であると感じられない不幸感。
世界はいよいよ美しくなり均質化されるが、
心の中に残るのは一抹の虚しさと一層大きくなる不安で、
しまいには私がいなければ世界はもっと美しいのかもしれない
という絶望的な感情さえ湧いてくる。

 現実ではいやおうなしにそのシステムのなかでのポジション取りに駆り立てられ、
その中のよりよいパーツになろう尽力する私たち。
しかし、そうすればするほど、
目に見える利得の追及や合理性の循環の檻の中に閉じ込められていく。
そして、どこからか持ってこられ標榜される美に翻弄され、
それを自分のものとして確保することに終始するようになる。
「私はこうである、こうなりたい」よりも
「私はこうあるべきだ、こうならないといけない」
という考えが先に来て、それに覆いつくされるのだ。
それは、とどまるところを知らない欲望の塔の建設のようなもので、
その競争の中で私たちはますます自分の心を失っていってしまう。

 そうして気付かない間に利己的になり強い自意識に悩まされるようになった私たちは、
自分の孤独をよりいっそう深めることになる。巨大な生産レーンの1パーツとして奔走するが、
作り手としてのよろこびのない仕事。
人の欲望を小出しにさせてその無意味さを忘れさせようとするSNSのボタンの数々。
映えるものが視界にあふれていることからくる錯覚と意欲の喪失。
知るばかりの毎日がもたらす諦めと無気力は、私たちを情報の只中にはあるが思想なき生き様へと落とし入れる。
さらに、滅びが予感されない日々の中で生きることの儚さは忘れられ、
私たちは自分の内から湧く生きたいという希望さえもを見失ってしまう。

 一見、ただの怠惰に見えるような堕落、
淡々と実行される自傷行為、
人との交わりを厭い劣化していく感情、
生を見たいというような猟奇的な欲求と憐れみを忘れた残忍な破壊への衝動、
社会への憎悪、
末期的な自己顕示としてのテロ行為......。

この舞台が問いかけようとするのは、
そうした逃れようのないかに見える病と、
それがやがては救いようのない自虐または他虐に発露してしまうという悲劇についてである。  (山下光鶴)

バレエ、日本舞踊、室内楽による新作舞台
「金閣寺」ーその人を生きるー 
活けられる花

令和5年5月6日(土)
15:00開演/ 14:15開場
16:00終演(休憩無し)

一般 ¥2,500
高校生以下 ¥500

電子チケットはPassmarketで発売中です。
Passmarketで「金閣寺」を検索

暗闇の中。見えないことへの不安と見られないことへの安心。
そのどちらがまさるのか……。

戦後の転換期に起こった事件――劣等感と無力感にさいなまれた1人の青年が自らの美の象徴へ火を放った――が今日を生きる私たちに再び投げかける、「美とはなにか?」という問い。

美への憧れと、それに由来する孤独感。内に閉ざされた世界で空回りする自虐的な豊かさ。焦がれる心と不具の烙印、消えたいという想い……。
破滅へと至る魂の苦悩を、バレエ×日本舞踊×室内楽という異色の組み合わせで描く。

【作曲・構成】
山下 光鶴
ホームページ

【出演者】
バレエ:齋藤 充央 @saitomitsuhisa

日本舞踊:永野 碧衣 @ayushu0424

ギター:山下 光鶴 @terukaku_yamashita_guitar
トランペット:齋藤 友亨
@tomoyukisaito_
ヴィオラ:村松 ハンナ
@vla_hannah
打楽器:齋藤 梨々子、難波 芙美加 @fuuuusummer

【プロデュース】Ensemble Classica Zushi
【後援】逗子市教育委員会、葉山町、HAUSEN(株)

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