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退職を決意したきっかけ。
弟が「悔しい」ということを教えてくれたからである。
2021年春に弟が他界した。約2年すい臓がんと闘って旅立った。
離れて暮らしていた弟は、闘病中、病気や化学療法の副作用と闘いながらも趣味の山登りを満喫し、家族や友達との時間を目いっぱい楽しんでいる様子をLINEのフィードに毎日あげていた。そこにある写真や弟の言葉の一語一句から今を目いっぱい生きていることが見えた。癌が進行し緩和ケアに入っても弟はポジディブで居続けるように努力していることも読み取れた。
が、最後に倒れて病院で余命数日と言われたときに弟は最後にLINEにこう上げた。
「悔しいです。」
それを見てすぐに弟のところに向かったのだが、新幹線の中でこの「悔しいです」を何度も読み直した。そして、わたしは生まれてからこのかた「悔しい」という気持ちになったことがなかったことに気づいた。楽観的な性格もあると思うが、自分ではどうしようもできないことは思い切って諦めてしまうほうが正解だと思っていたからだ。だから「悔しい」と思うことがなかった。
だけど、それは次の機会が必ずある、という前提があったからだった。弟にはその次の機会というのものが”ない”ということが決定的だった。それがどんなに絶望的なことだろうか。誰よりも家族思いで友達も大切にしていた弟の最後の言葉が、家族や友人たちへ向けた言葉ではなくこの「悔しい」だったことが全てだ。どうしようもできないことの悔しさ。ぶつけようのない悔しさ。これ以上ないベストを尽くして生き切った弟さえ、ものすごく悔しいんだ。
そう思うとわたしも悔しくてたまらなくなった。今の弟に何もしてやれない悔しさ。わたしの残り人生を半分弟にあげることができたら弟はまだ生きれるのに、それができない悔しさ。
「神様はもう何もしてくれんのか!」とほとんど怒りにも近い悔しさの気持ちでいっぱいで、わたしは弟のところに向かったことを覚えている。
そして弟が他界したあと、弟の写真を見ながら自分の生き方を考えた。
わたしは「仕方ない」「あきらめるしかない」で生きてきたが、これは自分でほんとに納得してるのか?もし明日命がなくなるとして仕方ないで終われるか?ほんとに悔いはないか?と自分に問ってみた。
そして数年踏み出せなかった退職について考えていた。弟の「悔しい」や、弟に何もできなかった自分への「悔しい」とはベクトルは違っているが、ここで踏み出さないときっと後悔すると思った。明らかに「今のまま終わるのはやだ!」と思った。
「人生は一度きり」とか「悔いのない人生を」ってフレーズは、いろんな場面で見聞きするし、もちろんそんなことわかってた。だけど、どこか他人事のように感じていた気がする。きっと初めてガツンとほんとに気づけた瞬間だった。
そして長年勤めていた派遣先を辞めることを決意したのである。派遣会社との契約も終了して、フリーランスに転向することにした。
もともとフリーランスになりたいと思っていた。自分で全部コントロールできる仕事がしたかった。でも一人で商売ができるか食べていけるかの自信がなかったからあきらめていただけだった。
そしてそう決意してから1年半かかったがやっと退職したのである。
なぜこんなに時間がかかったかというと、フリーランスになるためにお金が必要だったからだ。そのために貯金する期間が必要だった。そして、社員への引継ぎに時間を要することも予測してのこの期間だった。(実際、退職するその前日まで引継ぎに追われた)
今はとてもすがすがしい気持ちである。今もう夢と希望しかない。「甘い」と言われようがなんだろうが、しっかり前を向けている。
さあいくぞ。目いっぱい生きるぞ。
弟よ。見といてくれよっ!
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