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新型コロナウイルス騒動から見るマクロとミクロ その69 ~この国の教育のゆくえ~

政府は予定していたイベントの入場制限数を緩和するそうである。我々からするとエンターテイメント系の企業からの圧力に負けたようにしか見えないのである。果たしてこの決定は本当に妥当なのだろうか。まず「新型コロナウイルスに対して拡散防止が出来ている」や「新型コロナウイルスを抑え込んでいる」を考えなくてはいけない。片方がある程度出来ていればいいと思うが、両方出来ているとなおよいと思う。

私は、どこかで破綻するように思っている。

日本の法律的に店舗などへの閉鎖などの強制力は無いことから自粛という流れになった。自粛された中でも営業を続けるお店はあった。今回の新型コロナウイルスは三密環境に無自覚症状でも陽性の人がいれば多くの人に感染する性質を持っている。そう考えた場合、ホストクラブやキャバクラやライブハウスといった業態はこれまでの方法での接客が感染拡大になってしまうと考えたのは正しいと思われる。しかしながら、強制力もない状態でもあるわけで、その上、政府が大局で判断できなくなっていることで、今後どこかで色んな歪みが出てくるだろう。

その歪みの先としてあるのが、医療従事者である。彼らは称賛され、補償されるべき存在であるにも関わらず、悪意を向けられることがある。その理由を単純に帰結することは出来ないが、その一端に『教育の敗北』を感じている。明治維新の頃、国の100年後を見据えて教育を考えるということがあった。また、戦後の日本人の識字率の高さも他国に比べると高かった。しかしながら、詰め込み系の教育を21世紀になっていても続けており、情報の更新を行っている50歳以上の世代がいるのも事実である。「思考する」ことを止めてしまうと、「入ってくる」情報が全てのように思えてしまう。大宅壮一は、テレビの出現に「一億総白痴化」と言ったが現実にそうなってきたのかもしれないし、インターネットの出現によりそれ以上の状況になっているのかもしれない。

教育のあるべき姿とは、時代を見据えて変わっていくことである。過去を知り、未来を臨み、今日を直視する。そんな時代にそった教育が出来ているとは思えない。昨年若くして亡くなった瀧本哲史氏は、先日noteに載っていた「2020年6月30日にまたここで会おう」の中で、マッキンゼーの面接での話に、面接者は元官僚で、官僚の世界では40歳になると大体どうなるかわかるという。同じ、公務員という括りで考えると、教師という職業もそういった世界観を持っているのではないかと思っている。変化を起こしづらい状況がある。それを打開するしかない。それは教師を糾弾すればいいものでは無い。それは新型コロナウイルスでの医療従事者への雑言やBlack lives Matterにおける暴力に通じるものがあると考える。

理性で押し留めていたものが壊れる様を、私はよく「ダムが決壊した」と表現する。もうすぐ、ダムが決壊するのではないだろうか。

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