新型コロナウイルス騒動から見るマクロとミクロ その5
2011年の東日本大震災によって、それまでの日常が非日常へと変わった人はどれくらいいるのだろう。今もなお、震災の影響を受けている人がいるおだろうと感じるのは2019年の台風15号と19号の影響が、今の新型コロナウイルスよりも大きいかもしれない。先日、東海道線に乗ると、ドアの上ので高掲示板に吾妻線や八高線の遅延などの情報に加え、浸水による機体が影響を受けた北陸新幹線の情報も見られるからである。そして今年に入っての新型コロナウイルスの騒動である。やっと私の近くのスーパーにもトイレットペーパーが見られるようになってきた。
今、振り返ってみても東日本大震災から今までにも局所的な災害はあった。山梨県の大雪や岡山県での水害などがすぐに思い出される。幸いなことに実家の両親も私も大きな影響を受けていない。そのことからも実際に影響のあった方々とは共感出来るところもあるが実感が伴っていないようにも感じられる。「日常」が「非日常」に変わるのは、『天災』だけではなく『人災』もある「暴力」によるものが多いと思う。家族を亡くされた方、家屋を失った方、会社が無くなり仕事を失った方等である。中々に受け入れ難い事実である。一歩前に出るには、事実をまず受け止めるしかない。デール・カーネギーが「道は開ける」で言うように、解決できないことを悩んでも解決は出来ない。過去の出来事は変えられないが、受け止め方は変えられるのだ。とはいえ、言葉でいうことと実際に行うとなると中々難しい。心の問題でもあるから、それぞれが異なる。まあ可視出来るものでも無いことから現状を知ることが難しい。
それを踏まえても2020年の日本はそれぞれが今の新型コロナウイルスの状況をどう受け止めていくかでもある。まだまだ、渦中であるから今後の被害などは予測するのが難しい。何らかの形で来年以降は、新型コロナウイルスに関する予防接種があるかもしれない。しかしながら、現状の重篤化と死亡を考えると年配の方が多いことからもインフルエンザのように予防接種がうまく浸透するかは不明であると言わざるを得ない。『非日常』が『日常』に変わるのは、その事実を受け入れた時が1つの答えでもあると思う。もしくは『非日常』であることを忘れるくらいの時間が経ってしまった場合もあるかもしれない。ひょっとして、『日常』とは『非日常』が連続する中で、それを無視出来る時間軸なのかもしれない。
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