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新型コロナウイルス騒動から見るマクロとミクロ その77 ~支援のあり方~

やはり「自粛」と「補償」はセットであるという考え方に色々な定義が存在しており、話が十分に噛み合っていないように思える節がある。新型コロナウイルスにおいて誰かが弱者を含めて支援する必要があると、誰もが考えていることに関しては同意して頂けるのではないだろうかと思う。そこで、どこが何をどれだけ支援するのかを考えていくことにする。国家がもし支援するとすれば国民の生命であると考えるべきだと思う。つまりは、生命を守るための支援とは何かとなる。まず思いつくのが生活保護である。下記のニュースを見て頂きたい。バイト等による最低賃金で東京に暮らすには不十分であるという試算が出ている。

同様に考えた場合に生活保護で十分な暮らしが可能であるのかという疑問が出てくる。仮に、政府及び地方公共団体が事業の維持に対して一切の補償を行わないとした場合、多くの事業が今回の新型コロナウイルスにより廃業に追い込まれることは目に見えている。そうなると不動産収入で収益を得ていた事業者も影響を受けドミノ倒しで事業が成り立たなくなっていくことは目に見えているのである。そう考えていくと、どうしても取捨選択が起きていき、政治献金や声の大きい政治家が肩をもつ産業に支援が傾いていくのは必然でその中での「Go Toキャンペーン」である。私は、完璧な国家も無ければ、完璧な政策など無いのだからベターな選択を繰り返していくしかないと考えている。「完璧な国家」というと「地上の楽園」と謳った北朝鮮を思い出されるかもしれない。調べていくと下記のような記事もあった。

2018年8月に在日コリアン5人が北朝鮮政府に損害賠償を求める訴訟を起こした。「楽園が待っている」と嘘をつかれ、戦後の帰国事業で北朝鮮へ戻り、極貧と強制労働に苦しんだ人たちだ。日本政府は北朝鮮の現実を知りながら、帰国を促したとされる。

うまくいってなければ訂正してくことが必要であり固辞することによる影響が出てくることが多い。故事にある「朝令暮改」は現社会ではありふれていくのではないだろうか。また地方公共団体には、法令を作ることしかできず決定することに対する自由度が低い。それも含めての予算が無いことからも国家の支援を受けないと支援ができないことも地方ごとに受けている影響が異なるにも関わらず、一括で支援をすることによる色んな隔たりが生まれてきていると思われる。また以前にも書いたがNGO等による支援も行うべきであるし、階層的な支援体制が作られないと十分だとは思えない。

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