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お疲れ様でした

先日、祖母が97歳の人生を終えました。
中学生の頃の母に「進行形ってしってる?」というようなことを聞かれ
「be動詞+ing」と切り返した才媛であった彼女は、苦労して苦労して、その中でも日常の小さなことに楽しみを見出しているような人でした。
手先も器用だったので、祖母がつるし雛を作ったり、木彫をしたりすると、いつも趣味の範囲では惜しいような作品ができました。合理的な考え方が好きだったようで、「それは合理的だ」と何かを誉めていたことがありました。

常に穏やかな笑顔でいる印象ながら、人間らしい弱さも、寅年らしい頑固さも備えていたようです。一緒に暮らしたことはなく、たまに会いに行くとただただ甘やかされたので、「話」をしたことはなかった気がします。それがちょっと残念です。

そういえばの話です。
高校生の時、入院していた祖父が亡くなってしまったと身内がバタバタとご葬儀の準備を始めている中で、「祖父が亡くなったと知らなかったら私の中で祖父は生きたままだったのに」と詮無いことを考えていたなあ、と思い出しました。その時から、人間には2段階の死があると思うことにしています。
1段階目は肉体の死。お葬式とかそういうことで区切る死です。
2段階目は忘却による死。私が覚えている限り、祖父の存在が消えることはない。反対に私が忘れてしまったら、私の世界から祖父の存在は消滅してしまう。それなら覚えていようと。
自分が忘れない限り、完全な死ではないと思うようにすると、寂しさの淵が少し遠ざかる気がします。

そんなことを思い出しながら、一方でやっぱり肉体というのも大事だなあ、と思いました。思い出の中の祖母が消えてしまうことはなくても、祖母が体温を持って他人に影響を与えることはもうないんだな、と。肉体の強さがさほど重要視されていない時代のように思いますが、なんだかんだ肉体がないと何もできないんだよなあ。日頃運動していませんが、この日からラジオ体操をしようと思いました。

つい先日コロナにかかってしかも治っていたというのはさすがです。学生の頃、はじめての語学留学に行く前不安に思っていたとき「この子はどこに出しても大丈夫だ」と言ってくれたことは今でも私の支えです。97年間、お疲れ様でした。
祖母の葬儀の帰り、みかんのドライフルーツを見つけてしまい、買ってしまいました。パッケージがかわいかったです。
何の家事もせずに子ども3人寝かせたまま法事に行かせてくれた主人、日中子どもをみててくれた義理のお母さん、ありがとうございました。


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