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ゴーイングホームデイと家族

4年ぶりのゴーイングホームデイが行われた。NPO法人抱樸が行う大運動会だ。抱樸は「大きな家族になろう」と35年間活動を続けてきた。15年前、「家族だったら運動会だ」と理事長の暴走から始まったのがゴーイングホームデイだ。今年は過去最高の330人が参加した。

抱樸の子ども支援で出会った子どもたちも大勢参加した。学校に行っていない子どもたちも少なくない。中には初めての運動会が元ホームレスの運動会という子もいる。周りはくたびれた爺さんばかり。子どもたちは大歓迎され、走れば大体一等賞。自己有用感がマシマシの運動会となる。
なぜ、「家族」になろうとするのか。それは抱樸で出会った人の9割ほどが亡くなっても家族が迎えに来ない人々だという現実があったからだ。だから抱樸では「出会いから看取りまで」の支援を行い「赤の他人がお葬式をする仕組み―地域互助会」を創ってきた。

今から40年前、1980年時点の世帯の分布は、夫婦と子どもが42%、三世帯同居20%、単身20%だった。全体の6割以上に世帯に子どもと大人、つまり家族がいた。しかし、2020年のデータを見ると最も多い世帯は単身世帯で4割を占めるようになった。標準世帯とされる夫婦と子ども世帯はもはや25%しかいない。

これが現在の日本社会の現実である。しかし、多くの人は40年前の感覚で生きている。「自分はたまたま単身世帯だが、地域は夫婦と子どもなどの世帯が大半を占めている」とどこかで思っている。しかし、現在のマジョリティは単身世帯なのだ。日本の社会保障制度は良くできていると思うが、それらも40年前の現実、つまり世帯分布に合わせ設計されている。家族が身近にいることが制度の前提となっているのだ。今後、単身化が進む中、どんな良い制度であってもそれが前提であるかぎり上手く機能しないのではと心配になる。

制度以上に深刻なのは「身内の責任意識」。日本社会はこれまで「ケア」を家庭内に押し込めてきた。例えば「親だからお弁当を作るのは当然」、「家族が葬式をするが当然」といってきた。「家族だから~すべき」という意識が強烈に残っている。そして、それを理由に周囲は助けようとしない。しかし肝心の家族がいない、あるいは家族にそんな力がないとしたらどうなるのか。

これらの心配を先取りしたのが抱樸の「地域互助会」であり「家族機能の社会化」である。抱樸では「家族」を「機能」で捉えた。「家族だからお弁当を作る」ではなく「お弁当を作った人を家族と呼ぼう」と言ってきた。炊き出しは「家族になる」ためのイベントでもある。同様に「お葬式に出た人を家族と呼ぶ」。抱樸では全くの赤の他人が葬式を担う。「互助会葬」である。他人だけど実に温かいひと時。家族だからおべんちゃらなど言わない。先日の葬式で弔辞を述べたMさんは自身もアルコール依存症で苦労してきた。そのMさんがやはり依存症で苦しんだOさんを追悼する。ヘビー級依の依存症の両者の世界タイトルマッチのような弔辞となった。「亡くなったOさんは本当に大酒のみで大変な人でした。昼過ぎにタクシーででかけて夜にパトカーで戻ってくる。そんなとんでもない人でした。Oさんがいなくなって静かになったけど寂しい」。皆、笑いながら涙を流す。

この国の単身化はますます進む。男性の生涯未婚率は3割になろうとしている。そんな中、「ゴーイングホームデイ、つまり運動会に出た人は全員家族だ」、「葬式に出た人は全員家族だ」と言い切ることが今の社会に必要だと思う。

現在、抱樸では希望のまちを創るプロジェクトを実施中である。暴力団本部事務所跡を引き受け、「怖いまちから希望のまちへ」変える。「まちを大きな家族とする」。それが希望のまちである。

抱樸ではクラウドファンディング実施中。
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いただきましたサポートはNPO抱樸の活動資金にさせていただきます。