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「『ダメ、絶対』だけでは絶対ダメ」

大学生の大麻使用が問題となっている。日本は法治国家だ。それをもって裁くことは当然だと多くの人が考える。しかし「正解は一つではない」。そう思うことが多い。

アルコール依存症やギャンブル依存症においては「止めさせる」が「正解」とされてきた。ご本人も「それで良い」とは思っていないが、止められない。そんな人に判で付いたように「断酒、断薬しろ」と迫る。「断酒を約束しないと治療しない」という医者もいた。麻薬取締法違反者の再犯率は6割を超えている。だが、薬物依存症に対して「逮捕」、「厳罰」「ダメ、絶対」。本当にそれでいいのか。

先週、ホームレス支援全国ネットワークの研修会に依存症治療のトップランナーである松本俊彦さんをお招きした。松本さんは「ハームリダクション(Harm Reduction=被害の低減)」という新しい依存症ケアの第一人者。そもそも人はなぜ、依存症になるのか。「薬物依存は道徳心や意志の強さ弱さの問題ではなく『病気』です。薬物が『快感』をもたしそれを求めて止められなくなると言われるが違います。依存症の中心には『痛み』がある。子どもの頃の虐待のトラウマや自分への嫌悪感などの『痛み』に苦しむ人が薬物に頼るのは『快感を得るため』ではなく『痛み』を和らげるためです。一時的にホッとできる。患者はそれを求めています。その人にとって薬は『松葉杖』のようなもので傷んだ体を支えています。それを『ダメ、絶対』と取り上げると最悪の場合死んでしまいます。本人の意志や根性に頼るのではなく背景にある『痛み』をどう和らげるかが大切です」と松本さん。なるほど。

もう一人のゲストは、かつてアルコール依存症だったAさん。「仕事をして家に帰っても、切り替えが下手な自分は家でも仕事のことばかり考えていました。これが辛く身が持たない。それでアルコールを飲むようになりました。飲むと忘れられた。そして依存症に」。「お酒好き」という単純なことではない。彼がアルコール依存症になったのは「しんどさから逃れる」ため。「これ以上ひどい状態にならない」ため、つまり「生きる」ためだった。その後、Aさんは専門病院に通院したが抗酒剤(この薬を飲んだ上で酒を飲むと激烈な苦しみに見舞われる)を処方され断酒のミーティングへの参加を勧められた。そこでは「失敗談」をお互い語り合う。毎回同じ話しで気が滅入った。四か月で通院を止めた。現在彼は、仕事を続けており、酒も適度に飲まれる。「自分を救ったのは人とのつながりを増やすことでした」と彼は語る。

僕が出会った親父さんで重いアルコール依存症の方がたくさんおられた。みな、何かを埋め合わせるように「酒に頼って」おられた。まさに「松葉杖」だったと思う。Aさんは、長年続いた野宿生活を終え、アパートに入居された。地域生活が始まった後、しばしばお酒の飲み過ぎ状態となり地域で問題となった。「Aさんが道で倒れています。迎えに来てください」「Aさんがスーパーでおしっこしました。なんとかしてください」など、しょっちゅう呼び出しを食らった。そしてAさんのアルコール依存症の治療が始まった。医師は「断酒」を迫った。支援者側も「それは当然」と受け止めていた。数か月の入院の後、Aさんは戻って来られた。以来NPOの事務所で毎朝抗酒剤を飲むようになった。お酒の問題は一見解決したかに思われた。しかし、日に日に陽気だったAさんが無口になり、誰とも付き合わなくなっていった。そして笑顔が消えた。「Aさんのいのちと健康を考えて」断酒を勧めた。だが、その結果どう見てもAさんの日々は「幸せ」ではなくなった。Aさんにとって断酒とは何であったのか。誰のための断酒なのか。「本人のため」と言いつつ、実は「地域やお世話する人が安心するため」であったように思う。それでAさんと話し合い金銭管理をさせてもらうことにした。いわば「酒量の総量規制」を始めたのだ。以前のように大量には飲めないが「それなりに飲む」ようになったAさんは笑顔を取り戻し、かつてほどではないが「適度に地域で倒れる」ようになられた。かつては毎月何度も「呼び出し」を食らっていたが、年間数回に抑えられた。トラブル無しにはならないが「受容可能なトラブルの『程度』」が存在することも僕らは学んだ。

ハームリダクションは、「ハーム(被害)」を「リダクションする(減らす)」ことである。依存症患者にとって最大の「ハーム」はいのちを失うこと。これを回避するため一定のコントロールの下に薬物を使用できる仕組みを創る。カナダでは公衆衛生局が管理する「注射室」が設置され依存症の方が「安心して注射できる」環境を創っているという。世界では80ヵ国がこの政策に取り組み薬物依存者が顕著に減っている。

いずれにせよ、見た目の現象だけを見て対処するのではなくその奥底にある「痛み」を見つめなければいけない。そもそも「周囲が安心できるための対処」ではなく、その本人の「痛み」に向き合わねばならない。かくいう僕もいろいろな「松葉杖」に支えられ生きている。「依存」と「依存症」は違う。だが、程度こそ違えども「根っ子にあるもの」は同じ。僕も「依存」しながら生きている。そうでないと生きられない。周りには申し訳ないと思うが現実だ。だから僕も誰かの依存先になれればよいと思っている。

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奥田知志
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