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【世界史】イチオシ! 紹介したい歴史人物

昔、Twitterで「#ふぁぼされる度に歴史人物の話をする」という企画がありまして。今日のnoteはそこで紹介した人物を改めて書いていこうと思います。


ヤン盲目王/ヨハン・フォン・ルクセンブルク(1296-1346)
ボヘミア王。ルクセンブルク伯。
皇帝ハインリヒ7世の息子だったが世襲はできず、一族の躍進のために戦いに明け暮れてイタリアからリトアニアまでの各地を転戦。
「ボヘミア王あるところに戦いが起きる」と恐れられた。 戦傷で失明した後も出陣を続け、百年戦争のクレシーの戦いで娘婿にあたるフランス王太子ジャンの救援に駆けつけ戦死。
盲目になっても戦場を駆けたその姿は敵味方を問わず賞賛され、騎士道の模範とされた。



カール10世グスタヴ(1622-60)
スウェーデン王。
プファルツ選帝侯家の一族。戦術的にはグスタヴ2世アドルフの孫弟子にあたる。
スウェーデンの最盛期《バルト帝国》に君臨した武威の国王で、ポーランドを攻めたあと転進、凍った海の上を渡ってデンマーク本島へ攻め込んだ「氷上侵攻」の逸話が著名。
しかし在位は5年半と短く、治世の多くを戦争に費やしたが、王朝の地盤を確固たるものにした。息子カール11世はそれを元に絶対王政を創始した。


ヴァルデマー4世(1320-75)
デンマーク王。エストニア領主。
国土を外国に買収され、王位が空位となった時代に「国土回復」を掲げて即位し、遠地エストニアを売却して元手として財政再建・軍備制度・外交政策の諸改革に成功。
国土の再統一に成功し、「再興王」あるいは「《新しい夜明けの》ヴァルデマー王」と呼ばれた。娘マルグレーテはカルマル連合の摂政として北欧三王国を支配した。


アルフォンソ7世(1105-57)
カスティーリャ王。
中世イタリア王にしてローマ皇帝ベレンガーリオ1世の末裔。 レコンキスタを進めカスティーリャを強国に押し上げ、イベリア半島で最有力の君主となり、「ヒスパニア皇帝」として独自に戴冠した。以降、イベリア半島で有力となった王は独自にヒスパニア皇帝を名乗ることがあった。
「皇帝王」と称されたが死後、領土は分割されてその勢力は衰退した。


シャルル突進公(1433-77)
ブルゴーニュ公爵。低地地方領主。
繁栄を誇ったブルゴーニュ公国最後の、独立した公爵。 本家であるフランス王国と渡り合い、古のブルグンド王国を再建して神聖ローマ皇帝になる野望を持っていたが、果てしない拡張政策により戦いに次ぐ戦いを起こして、最後はロレーヌ公との争いのなかスイス傭兵を相手に戦死した。
「無鉄砲で向こう見ずな公爵」と低評価されてきたが、近年は統治手腕の点からも覆りつつある。
その遺領は娘マリーを経て、その夫であるハプスブルク家のマクシミリアンに継承された。


ギョーム2世「庶子公」/ウィリアム1世「征服王」 (1027-87)
ノルマンディー公。イングランド王。
弟殺しの疑惑から後世に「悪魔ロベール」という伝説が作られ、《悪魔公》と呼ばれたノルマンディー公ロベール1世の庶子。
元来は継承権のない庶子の身分だったが、父の指名で継承者となり、フランス王の補佐もあり成長。
1066年、イングランドでエドワード証聖王が没して王家が絶えると、従甥であり「後継者に指名されていた」として侵攻して王位に就き、《ウィリアム征服王》として華々しく歴史に名を残した。現代まで続くイギリス王家の開祖。


皇帝バシレイオス2世(958-1025)
東ローマ皇帝。
有能な軍人皇帝であり、東ローマ帝国後期の最盛期を築く。 周辺に喧嘩を売り戦争を続けるも、国庫は何故か潤う一方という財政チート。
ブルガリア人の捕虜の目を潰して送り返し、その風景を見たブルガリア皇帝を卒倒させ、間接的にブルガリア帝国滅亡へ繋がったこと逸話がある。「ブルガリア人殺し」の異名がある。


ルイ9世(1214-70)
フランス王。
若くして即位したが、44年に及ぶ長い在位でアルビジョア十字軍を終わらせ国内は平和が保たれ、その高潔な人格から周辺国の調停に回ることもあった。
高い宗教的熱意から2度も十字軍を起こし、その2度目で陣没。没後27年後の1297年に列聖されて守護聖人として「聖王」「聖ルイ」と呼ばれた。


ベルナドット元帥/カール14世ヨハン(1763-1844)
ポンテコルヴォ大公のちスウェーデン=ノルウェー王。
フランスの平民階級出身(父は弁護士)。
革命時代に軍で昇進を重ねて、ナポレオン麾下の元帥たちのひとりとなる。ナポレオンからはライバル視されていた。
その指揮する軍は圧倒的な規律をほこり、迅速に移動することを可能とした。 のちスウェーデン王太子となりナポレオンと決別、その天下に終焉をもたらした。 戦後は国王として重武装中立を提唱し、国家の近代化に尽力。教育や福祉、産業などの諸改革に成功している。
現在まで続くベルナドッテ王朝の開祖となった。


皇帝ベレンガーリオ1世(850?-924)
イヴレーア辺境伯。イタリア王。ローマ皇帝。
中世初期の混迷としていたイタリアで、スポレート公グイード・ランベルト父子、東フランク王アルヌルフ、プロヴァンス王ルートヴィヒと争った。
女系でカール大帝の子孫にあたる。 対立者に勝利してイタリアを制覇して西ローマ皇帝位に就くが、暗殺された。その外孫ベレンガーリオ2世は政争に敗れ、ブルゴーニュに逃れた(ブルゴーニュ自由伯)。
オットー大帝以前では最後の皇帝となった。


オットー大帝(912-73)
東フランク王のち神聖ローマ皇帝。
分割相続法を廃したハインリヒ《捕鳥王》の子。ハンガリーのマジャール人を退治してキリスト教世界を守護して名声を得る。
教皇ヨハネス12世に請われてイタリアに秩序をもたらし、ロンバルディアでイタリア王位も兼ねた後にローマ皇帝として戴冠、帝国の体裁を立て直した。


マーチャーシュ1世(1443-90)
ハンガリー王。ボヘミア王。東部オーストリア大公。
中世ハンガリー最盛期の王。ボヘミア王も兼ね、皇帝フリードリヒ3世を追い出してウィーンを落としてオーストリア大公を名乗った。東でもオスマン帝国の領土にしばしば侵入して牽制した。
その時代はハンガリー王領の最大版図であり、輝かしい時代を築いた業績から「正義王」と呼ばれる。
キリスト教世界の守護者であるという自負から神聖ローマ皇帝になるという野心もあったが、果たせずに亡くなった。嫡子はいなかった。


ルイ12世(1462-1515)
フランス王。ナポリ王。ミラノ公爵。
ヴァロワ家傍流オルレアン家の出身。本家の国王シャルル8世に反抗して捕らえられたこともあったが、シャルル8世が事故死すると「はて、そんなこともあったか」と王位に登った。 そしてミラノ公国の継承権を主張して前王が始めたイタリア戦争を継続するも、結局は各国連合の猛撃を受け、シャルル8世の二の舞となり放棄せざるを得なかった。「人民王」のあだ名がある。


C.G.E.マンネルハイム(1867-1951)
フィンランド元帥。
フィンランド伝説の英雄。かつてフィンランド大公国だった時代にロシア軍の高級将校として皇帝夫妻に近侍した。日露戦争にも参加し、乃木将軍の軍を捕捉している。
ロシア帝国が崩壊すると、フィンランド独立に挺身し、軍を率いて共産勢力を退けた。
その後も第二次世界大戦の前後で起きた冬戦争、継続戦争においても老身ながら大国ソ連の侵攻から、その指揮官として小国フィンランドの国体維持に成功。救国の英雄となる。このとき齢70半ばを超えていたが、戦後には大統領も務めた。
アンケートでもフィンランドで最も敬愛される偉人としてトップであり、現在も敬愛する人がやまない。


ヨハン2世「善良侯」(1840-1929)
リヒテンシュタイン侯爵。
18歳で統治を始める。普墺戦争から第一次世界大戦後の激動の70年間もの間、統治して名君の誉れ高かった。
リヒテンシュタイン国民に対する福祉や教育の普及、また戦中の無利子補助金貸与と食料輸入、戦後の失業対策、永世中立国へ舵切りの決断を行い、臣民から愛された。 しかし本人はあくまでオーストリアの貴族としてウィーンに在住し、リヒテンシュタインを訪れたのは長い治世で7回ほどだった。
加えて人見知りで社交界にもあまり現れず、生涯独身だった。


クリスチャン10世(1870-1947)
デンマーク王。アイスランド王。
2度の世界大戦の中を在位し、特に2度目の大戦では数時間で国土陥落の決断を受け入れるも、被占領国にありながらその抵抗の象徴となった。 無言で占領に対する抵抗を行い、国民を鼓舞するために高齢にも関わらず毎日馬上の人となり、市内を巡幸した。ユダヤ人の迫害に毅然と反対し、デンマーク王国においては98パーセントがホロコーストから逃れることができた。


カール王子/ホーコン7世(1872-1957)
デンマーク王子のちノルウェー王。
デンマーク王クリスチャン10世の実弟。デンマーク王孫であったが、当時独立の機運が高まっていたノルウェーで王制が採択されると「選挙による民主的な手続きを経て」憲法・議会を守護する王(立憲君主)として即位した。 ナチス・ドイツ侵攻の際には傀儡君主となることを迫られるが、立憲君主の立場から拒否。ノルウェー軍は半年にわたりドイツの侵攻と戦ったが、苦渋の決断の末にイギリスに亡命。
(この辺の話は「ヒトラーに屈しなかった国王」として映画化、Amazonプライムなどで見れる)
国外から国家の維持を鼓舞した。戦後に凱旋し、兄の死後はヨーロッパ王家の最長老となった。
現イギリスのチャールズ3世の名前はこの王の即位前の名前「カール」にちなむ。


バランゲー=ラモン2世(1053/4-97)
バルセロナ伯爵。
ラモン=バランゲー1世の子。双子の兄ラモン=バランゲー2世と共同で統治したが、兄を殺したとの疑惑が出て「兄弟殺し伯」と呼ばれた。 兄の死後は甥のラモン=バランゲー3世と共同で在位した。


ヴェンツェル(1361-1419)
ローマ王。ボヘミア王。ルクセンブルク公爵。
ローマ王だったが戴冠に意欲がなく、廃位されたため皇帝にはなれなかった。兼ボヘミア王(ヴァーツラフ4世)。
金印勅書を出した皇帝カール4世の嫡男。暗愚で凡庸であったといわれ、深酒でフランス王との会談を欠席した。また先祖代々のルクセンブルク領を売却し、従兄や異母弟と同族で争った。
そのため怠惰王あるいは酔っ払い王と呼ばれる。 一方でボヘミアにおいては、その権利を尊重したため支持された。フス派にも理解を示していたが、その頃には実権を異母弟ジギスムントに握られており、フスの処刑とプラハ窓外投擲事件を聞いてショック死した。


ヘルマン1世(1035-88)
ザルム伯。対立ローマ王。
初期ルクセンブルク家の一族で、皇帝家の外戚だった。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の対立王だったが相手にされなかったので支配できず、ただその城の前に多くのニンニクが生えてたことから、敵は彼を「ニンニク王」と揶揄して嘲笑した。 子孫はザルム家として、「古伯」の称号を有した。
現在では「ニンニク王」は転じて地域の宣伝キャラクターにされている。


天空で誕生したカウィール1世(307即位)
マヤの地域王。
マヤ文明ティカル王朝の王。4世紀に君臨。 王「動物の頭飾り」と王妃「頭蓋骨」の子。


空を晴れさせるカウィール1世(?-?)
マヤの地域王。
マヤ文明ティカル王朝の王。7-8世紀に君臨。 ヌーン・ウホル・チャーク王の子。 1世紀続いた暗黒時代を終わらせ、神殿を造営した。


空を暗くするカウィール1世(734-66?)
マヤの地域王。
マヤ文明ティカル王朝の王。8世紀に君臨。 空を晴れさせるカウィール1世の子。 中興の祖と呼ばれ、父の勢力を引き継いで、多くの神殿を建設した。


《暗い太陽》 (810前後に在位)
マヤの地域王。
マヤ文明ティカル王朝の第31代王。 文明衰退期の王であり、王朝最後の神殿を建設した。 後継者「宝石カウィール」王。


アンリ・ダルトワ(1820-83)
通称シャンボール伯。
しばしばブルボン王朝の王制復古で名を挙げられ、特に普仏戦争後には王座に近くパリに凱旋した。
しかし王国旗ではなく革命後の三色旗を受け入れるという条件を認めず、王制復古の好機は喪われた。 子供がなかったため、その死をもってルイ15世以来のフランス=ブルボン本家の男系系譜は断絶した。その後の王位請求権がどこに渡ったかについては今でも解釈が別れる。


ハーラル1世(850?-930)
ノルウェー王。
ヴェストフォル王のハルヴダン黒髪王の子。伝承によればある姫への求婚の際に「一国の王としか結婚しない」と言われ、ノルウェーの統一事業に乗り出す。
その間は髪を切らなかったため「蓬髪のハーラル」と言われ、統一後にノルウェー王位に就くと「美髪王」と呼ばれた。
その男系子孫であることは14世紀初めまで王位を主張する根拠として使われた。


アルテュール3世(リッシュモン大元帥)
名目上のリッチモンド伯→ブルターニュ公。
かつてイングランドを滅ぼすと予言された者、また正義の人と呼ばれる。百年戦争末期における英雄。
厳しい規律と頑徹な性格により軍制改革を断行してノルマンディー地方を再征服し、フランス再統一と百年戦争の終結に尽力した。 戦後、ブルターニュ公位を継承。


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