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【歴史短編】秋。前将軍、藤原頼経の死に際して。

今年の夏は、急に過ぎ去っていった。久遠の夢の彼方になってしまったあの鎌倉の夏も、暑かったのだろうか。

 私があの鎌倉を離れたのも、今のような初秋の頃だった。物心付いてから鎌倉にいて、将軍をやらされていた。数え二歳の冬のこと、東海道を降りてこの鎌倉府の将軍として振る舞うことになった。源氏の将軍が絶えたあと、頼朝公の妹が私の祖母にあたる、というのが理由だったらしい。
 父も母も覚えていない私が六歳のとき近習として付いたのが、(三浦)光村と(北条)重時だった。歳はいくらか上だったけど、幼い自分はずっと彼らの周りで遊んでいた記憶がある。
 光村は……初めて会ったとき数え一九であった。激高しやすい性格で、私が鎌倉に降りた年には元服前でありながら八幡宮で乱闘を起こしたと伝え聞いた。これを本人に確認すると話の途中で遮られてしまうのが常であった。あまり触れられたくないようだ。光村はずっと私がどこへいくにも「殿が危ない所へ行ってしまうといけない」と言って後ろを付いてきた。そういう光村を脅かそうと急に物陰に隠れて、慌てて探しに来た彼を驚かす遊びは幼い頃の私の流行りだった。
(その後、えらく怒られた)

 一方で光村とは逆に重時は冷静な性分で、読み書きなどはよく習ったものだった。後に聞いてみればそのとき数え二十六歳だったという。言われてみれば納得だが、二十も離れた歳の者を近習として付けるのも可笑しい話だ、と重時とはしばしば笑い話にしていたこともあった。
「いや、殿に付いたお陰で子育ての仕方を教えてもらったようなもんですから」
「なんと不敬な、私は将軍だぞ」
 そう戯れに耳と盃を傾けた、懐かしき鎌倉の記憶。

 もう今の私には、酒を飲む気力もない。病にあてられ、目を開けば景色がユラユラと揺れている。周りの話し声もよく聞こえていない。気心知れた友人に看取られることなく、私は死ぬのだ。光村……まだ迎えに来ないか……

「大殿、たとえ大殿があの鎌倉を離れようとこの光村は忘れません。きっと迎えに行きますから、鎌倉でまた過ごしましょう」
 幕府の騒動に巻き込まれた私は担がれ、政争に敗れて京へ追い出されてしまった。その道を警護して京までやってきた光村は、別れ際にそう涙ながら約束してくれた。
 その翌年。光村は先将軍である私の鎌倉帰還を掲げて挙兵して幕府軍を相手に戦った。しかし多勢に無勢、壮絶な討死をしたと皆は言う。

「重時、あの光村が死んだとは嘘だろう、嘘だと言ってくれ」
 取り乱しようを見て、そのとき在京していた重時が屋敷に訪ねてきた。
「……正直な所を話すと、光村殿だと判別することはできなかったようです。判別されないよう自ら顔を削り切り刻まれていました。ですが、状況的に光村殿と判断----」
「生きている、きっと光村は今に上洛して私を迎えに来てくれるはずだ」
フゥ、と溜息をこぼしながら重時。
「お気持ちは分かりますが、今は菩提を弔うべく念仏を唱えるのが、光村殿のためにもなります」
「そも! なんで重時は黙っていたのだ。私は将軍にあったときから北条の専横に常々悩んだのは知っておろう。身近にいる御家人は北条によって潰されるか追い出された、そして私も追い出され、光村がこうなったのも北条のせいだ。……なんで重時、お前は黙っていられるんだ!」
 そう拒絶したのが、北条重時との最後の別れであった。彼はこのすぐ後、親族の職を引き継ぐと言って鎌倉に戻ったきりとうとう京には来なかった。

 もし私があのとき、重時を怒っていなければいま看取ってくれただろうか。いま独りなのも、家臣を情に任せて怒る報いなのかもしれない。
「今年の秋は、急に冷たくなったなあ。のう、光村……」
 それが言葉になったかわからないまま、私は意識が薄れゆくままに身を委ねた。
 
 藤原頼経、三十九歳にて死去。時に康元元年八月十一日(新暦九月一日)のことであった。死に際して、とある公家はこう書き残した。
「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」

 そしてこれに前後して、北条重時は出家して隠居。極楽寺観覚と称するようになった。はたしてそれが藤原頼経が病になった報を聞いたか故の行動かはわからない。ただ隠居した後の重時はひたすらに念仏を唱え、最後までそれを貫いたと伝えられている。

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