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【世界史】忠告してくれる幽霊王(フランス, シャルル8世)
中世も終わろうとしている15世紀後半に、フランス王シャルル8世(在位1483-98)という王様がいました。
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彼は長い長い、フランスの王座をめぐる百年戦争を終結させたシャルル7世<勝利王>の孫にあたり、権謀術数で大諸侯を弱めて国内の中央集権化を進めたルイ11世<慎重王>の息子でした。
ルイ11世は、意見の方向性の違いと野心から、父王シャルル7世に対して度々反乱を起こすほど不和でした。
シャルル7世はとうとう、息子からの毒殺を恐れて一説では食を断って餓死したといわれています。
一方でルイ11世は、唯一の息子だった息子のシャルル王太子に対して、医師を常に付けて城から出させないなど過保護なほどの育て方をしました。
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それはシャルル王太子が病に罹患しており、脚などが変形して虚弱だったからでした。
病弱な王太子は暗い城の中で教育よりも、本に書かれていた騎士道物語に憧れを見出すようになっていきました。
ルイ11世は60歳で没し、シャルル王太子が国王シャルル8世として13歳にして即位します。
わずか13歳での即位だったので当初は摂政や親族の補佐を受けていましたが、20歳を越えて成人すると自立するようになり、親政を開始しました。
そして王が始めたのが、「イタリア戦争」です。
当時イタリアはルネサンス時代を迎えていましたが、北イタリアの諸公国は神聖ローマ皇帝権から離れまとまりを欠け、メディチ家やヴィスコンティ家などの大貴族が群雄割拠する状況で、シャルル8世はその平定と南イタリアにあったナポリ王国の王位を主張したのです。
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根拠としては、数代前のナポリ王レナート<善良王>がフランス王族だったということでした。
つまり、かつて王家の分家が持っていた王位の請求をしたのです。
またナポリ王国を支配しようとした理由に、十字軍の遂行がありました。
当時、教皇は対オスマン十字軍を求める勅書を複数回だしており、フランス王シャルル8世のほか、アラゴン王フェルナンド2世や神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世もイタリアの掌握を狙っていました。
諸国の王侯がイタリアに注目する中、最初にイタリアへ兵を進めたのがシャルル8世でした。
騎士道物語に感化されて育ったシャルル8世は幼少時からの野望、すなわち十字軍を起こしてトルコ人の占領するコンスタンティノープルを奪還し、その地で皇帝戴冠を果たして東ローマ帝国を復活させるという夢があったのです。
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