科学からみたアクター-ネットワーク理論

サイエンスウォーズとその射程

皆さんはサイエンスウォーズというものを知っているでしょうか?

サイエンスウォーズとはポストモダン思想から派生した「科学構築主義」の一派がその思想を用いて”科学”に対する批判を行った時期のことを言います。

やがて「でっちあげ論文」を査読付き論文に投稿するというソーカル事件というものがあって、実質的に”科学の完全勝利”で幕を閉じました。ある意味において思想が力を失った分岐点にもなったように思います。

さて、この中で批判のやり玉に挙がったラトゥールのアクター-ネットワーク理論(ANT)を読んでいます。

ラトゥールは初期の仕事で「研究室の社会研究」を行ったことで知られており、著作が「科学がつくられているとき」というタイトルであることも相まって、ある意味で科学構築主義の親玉のような存在です。

しかし、後期の仕事であるアクターズネットワーク理論(ANT)を読んでいるとそこまで過激でもなく、どうやら「科学が作られているとき」でもそこまで過激な主張をしていないようです。

ANTを読んでいると「社会学は自然科学がどうこう批判してるけど、じゃあ社会学の方はどうなん?」というある意味「カウンター」のような理論でして笑、案外穏健というか、結構真っ当な態度で科学と接しています。

というわけでなかなか嫌われがちな科学構築主義を(元)科学者目線から見てみました。

社会学とANTのすれ違い

ANTの入門書と銘打っている「社会的なものを組み直す」を読んでいると、ドゥルーズに影響を受けていることは了解済みではあるのですが、アンチオイディプスと言っていることはほとんど同じです。むしろ「盗作か?」と思えるくらいでして笑、ほとんど同じ概念を(自分で考えた)別の新たな単語として登場させているとしか思えないレベルで同じ。

本書の立ち位置も「精神分析に対するアンチオイディプス」のように既存社会学の批判というポジションです。

日本語の文献でアンチオイディプスとの関係性を述べているものが一つもヒットしないんですが、英語でもあまりヒットしない笑(読んでないでしょうね、、、)、

こちらの論文がぱっと見つけたANTとドゥルーズの関係性を調べた論文で引用800以上引用があります。(”手法”にフォーカス比較した論文ですが、ドゥルーズ=ガタリは哲学なので手法の比較してどうするの?とは思いますが。。。)
ある意味でアンチオイディプスの”実践的取り組み”としてのアンチオイディプスといった立ち位置なのがANTなんだと思います。

https://compass.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/gec3.12192

その意味でとっても読みにくいアンチオイディプスの「わかりやすい解説書」としても「ANT」入門書は役に立ちます。
いわばカントの「純粋理性批判」の解説書としてのショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」のような。

さて、ANTは「社会学の世界観」としてドゥルーズのミル・プラトー的な世界観を提示し、その世界観に沿って社会学を展開するというお話です。

ドゥルーズの言葉を借りると「脱コード化と脱領土化→コード化→超コード化、再領土化」の過程をたどるのがANTの目指すところであって、その手法として逃走線を辿るということを行うわけです。

逆に既存の社会学は精神分析における「オイディプス化」の如く全てを「狭小なイメージ」に押し込んでしまうかのように「無理に定義」をあてはめ、あたかも万能かのように理論を乱用している、というのがANTからの既存社会学の批判です。

スギゾフレニックな社会学がANTで、パラノイアなのが既存の社会学というわけです。

一方の主張のみを取り上げるのは不公平なのでラトゥールの著書で批判のやり玉に挙がっているブルデューのこちらを読んでみました(こちらの本ではラトゥールを批判しています笑)。

ブルデューには「界=場」というのがキーワードとしてあって、ブルデューは「界が存在するものとして」その中での「権力性やネットワーク性」を議論します。

ラトゥールが個々人の行動の結果によって、場ができる”過程”を重視するのに対して、ブルデューは「場というものが外部から与えられている(場というのは権力的に決められる)」としその中で場の影響をどのように受けて活動しているのか?を議論している。今の文脈ではまさに構造主義vsポスト構造主義の構図です笑。ですのでブルデューの社会学はポスト構造主義社会学としてのANTと相性が悪いのもわかります。

アクター-ネットワーク理論は科学的?

さて、科学からみたANTはどうかというと確実にANTの方が「科学的に正しいアプローチ」というのは断言できます。

我々理系分野の科学者が既存社会学のようなアプローチを科学と認めない最も大きな部分が「信頼性も妥当性もない概念をあたかも真理かのように扱う」部分です。

そういう学問は多少は納得感はあれど検証性もクソもないので「あなたの中、あなた達の中ではそうなんでしょうけど」と思ってしまう。それなのに「我々は科学をしている」と言われると薄ら寒いものを感じてしまう。

科学者からみるとなんでこんな社会学が今まで続いているのかが不思議なんですが笑、それは「社会学は科学と言いながら数学を模範」としているというのが原因になっていると思われます。

社会学は「socio+logy」つまり、「集団におけるある種の定まった概念」についての論理が「学問としてのアイデンティティ」としてある。その「概念」についての論理が「科学と同様に論理的に扱われ(彼の中では)経験によって実証される」というニュアンスで科学を自称する。

社会学が興ったのは1850年から1900年あたり。その頃の科学といえば物理一択でして、特に力学が数学的に洗練していった時期で、ハミルトン力学やマクスウェル方程式が完成したあたり。その頃に「科学」を参考にすると「数学的に論理体系を洗練させれば厳密な科学にできる」という雰囲気だったのは想像に難くなく、同じ時期に発展した経済学も精神分析も同様の論理体系を持っています(そしてすべてが科学を謳います)。

おそらくですが、ラトゥールは研究室の社会学を通して、「科学」の意味の大きな隔たりに気づいてしまったのでしょう笑。そして「科学の現場での活動のような社会学」を目指した。

そもそも論として科学サイドからしたら「社会は自然科学とは比べようもなく複雑で、科学のように単一の法則や理論で記述できるようなものでも、グローバルに成り立つような法則が成立できるはずもない」と思っています。

ですので、そうでなくてある程度ローカルに成立する知見の蓄積の方が意味があるんじゃないとも思っています。要は社会学は「数学物理」的な学問ではなく「生態学」的な学問であると(人間という生物の生態についての学問という認識はとても妥当です)。

生態学の研究手法はひたすらに観察し、行動を記録する。そして、その行動のパターンや特徴から何らかの法則を導き出す。これはANTの手法と全く同じです。つまり、ANTは「人間生態学」として科学の装いを持っているとも言えます。

既存社会学の「社会モデル」よりは「できるだけ無バイアスに地道にデータを集める」を勧めるANTの方がよほど「科学的な態度」と思うわけです。

実際の科学者の実際の仕事の大部分は「データ作り」の新しいノウハウであったり「データ分析」の新しいノウハウを蓄積していくことです。
科学者はデータを取るのにものすごいコストを掛けます。大きな実験装置をつくったり、何百もの組み合わせの遺伝子パターンを網羅的に調べたり。
理論を組み立てるのは「おまけ」程度の分野が大半ですし、「信用ならないもの」として扱われることの方が多い。

その意味において、あまりに「独りよがりな理論」で「世界を理解した気になっている」人々を否定するドゥルーズもラトゥールも実は思っている以上に科学に対して親和的です。

体系への誘惑と人間を”愛でる”こと

さて、「脱コード化と脱領土化→コード化→超コード化、再領土化」の過程をたどるのがANTの目指すところであって、その手法として逃走線を辿るということを行うわけです。と言いましたが、科学とはこの文脈においては「超コード化、再領土化」のことです。

コード化は「個々の対象を法則化すること」、「超コード化」は「それらをまとめて体系をつくること」みたいなノリだと思ってください。その体系を成り立たせる領域を定めるのが「領土化」です。そこから枠をはみ出していくのが逃走です。

さて、先に述べたように社会学は「領土化されている学問」ですし、科学も然りです。しかし、ANTから導き出せる「法則」自体はローカルなものであり、「グローバルに成り立つ」法則はおそらく永遠に手に入りません。

その意味において名実共にANTによる社会学は”科学”でも社会学でもなくなるわけです。外野からしたらそれでいいじゃんと思うのですが、先に書いたように「アイデンティティ」に関わる問題です。これがブルデューが批判したいことであって、ANTへのためらいを持つ部分なのだと思います。

しかしながらこうも言えます。
先ほど生態学の例を出したので生態学とのアナロジーを考えましょう。

生物には収斂進化というものがあります。同じ環境にいると似たような形態になる場合がある(モグラとおけらみたいな)。これをもって「界=環境を決めるとおのずと進化の方向が収斂する」と言えるか?
答えは「No」です。異なる環境への逃避も可能ですし、別の形でもあり得ます。つまり、あくまで収斂したのは「たまたま結果的に」であって、必然ではない。

これは人間社会でも同様なはずです。様々な社会現象は「結果」であって、帰結ではない。「そういう風になっちゃった」だけで「そうなることになっている」ことはない。

「そうなっちゃった」ものを「そうなるべき・そうならないべき」とアクロバティックに変換してしまう既存社会学の方がゆがんだ科学観を持っています。その意味において「ANT」のように「そうなった過程」をたどることは決して非科学的でもないし、それが「学問」になりうると思います。

そうはいいつつも、現代では生態学は現在の生物学においては「マイナー」で、分子生物学のような「グローバル」な体系を求める学問のほうがメインストリー厶です(といいつつ、様々なローカルに成立する遺伝子なりタンパク質なりを見つけているのが仕事なんですが)。

ある意味で生態学への興味は特殊です。私も興味を持てないですし笑。ある意味で生態学は対象について「愛でる」気持ちがないとできない。

その意味においてANTにおいても、対象を”愛でる気持ち”がないと難しい笑
極端な話、研究者という「気難しいおっさん」を眺める仕事なわけで笑、おっさんの生態にそれなりに「可笑しみ」を感じないとANTはできない。逆に言うとブルデューのようにことさら権力なり資本なりを強調するのはそういう「気難しいおっさん」が嫌いだからです笑

やはり「グローバルな法則」を求める方がかっこいいし、何らかの「必然性」を求めることが研究という「理性の活動」をする上では必要な要素なのかもしれません。その意味において既存の社会学は永遠に残り続けます。
しかし、「人間生態学」という「科学的な人間観察」としてのANTも「人間の”可笑しい”特徴」の発見手法として案外意外なところで役割を担っていくのかもしれません。

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