【viva不登校】「適応指導教室」という「言葉」がつけた私の心のささくれ
息子が「学校には行かない」と選択をした時、この先の色々な可能性を模索した。
その中の一つに、今回のタイトルにある「適応指導教室」があった。まず最初に言っておきたいこと、それはこの「適応指導教室」の意義や意味、そこで働いている方々の想いには、心から尊敬の念を抱いている。本当にありがとうございます。
ただ、その時、少し気になったこと、それはこの「適応指導教室」という呼び名について。
重ねて言います。そこで働いておられる方、そしてこの場所自体の意義に意を唱えているわけではないので、悪しからず。
「適応」や「指導」という言葉からフラッシュバックする、降りてくる、なんだか窮屈な、枠から外れたものを戻そうとする固まった力、なんだろう。心の中に去来した声。
子供たちは何に「適応」しなければならないのか?
子供たちは何を「指導」されるのか?
どうしてもその時、その「言葉」たちがささくれのように引っかかってしまって。仮に、息子がそこに行くとなったとき、「自分は適応指導教室に行く」その「言葉」をどのように受け止めるのだろうか?
結局、私は行かせる気にはならなかった。無論、息子が全く興味を示さなかったことが大きな理由ではある。
このささくれの跡がまだ心のどこかで、ヒリヒリとしている。おそらく私の問題意識はここにあるのだろうと思う。
viva不登校。
ここまでお読みくださりありがとうございます。基本的に「褒められ」「乗せられ」「おだてられ」ぐんぐん伸びる私です。皆さんのリアクションに勇気百倍です。重ねてありがとうございます。