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イツカ キミハ イッタep.43

遠出をする前、落ち着きなく細かな失態を繰り返すことがある。五島列島に仕事で行く日の朝もそうだった。

約1週間不在となるため、返却を催促されていた図書館に寄り、本の返却だけをすればよいものを、受付窓口近くのワゴンに載っていた新刊に手が伸び、そのまま旅先のお供にした。昨今では感染予防対策の一環で、図書除菌機なるものが設置してあったため、気休め程度にその機械に本を通して行こうと列に並んでいたが、待ち時間にスマホで乗換案内を眺めているうちに自分の順番が近づいたことに気づかなかった。

「こちら、どうぞ!」

自分のすぐ前に並んでいた年配の女性が機械の扉を開けて言った。
たった1冊しか手にしていない自分を見て、自身の借りた本の空きスペースに並べて良いという気遣いだった。
その女性は除菌終了の合図とともに再び扉を開け、

「お先にどうぞ」

と手招きした。
本来なら御礼をきちんと伝えるべきところ、空港に向かう電車の時刻が差し迫っていたことからお辞儀だけして、本を奪うようにして一目散にその場を去った。走りながら、猛烈に自らの振る舞いを恥じた。

なんとか滑り込んだ車内は、通勤時間と重なっていたためか、かなり混雑していた。背中に流れる汗を感じながら、目的の電車に乗れたことに安堵し背負っていたビジネスリュックを胸元に抱え直した。右肘を引っ張られた気がしたので振り返ると、自分と真後ろのサラリーマンの更に後ろに立っていたお姉さま風の女性に小声で話しかけられた。

「あなた、タグ、出てますよ」
「えっ?」
「だから、タグ、値札」

最後の「ねふだ」という響きが、なんとも冷たく聞こえた。呆れられている、いや、軽蔑のこもった声色だった。
全身に先程までの暑さとは違う汗が流れた。

「ど、ど、どうも」

それだけ言うと、またも人混みに紛れるようにしてその場を去った。右手を腰に当て、タグを触って慌ててズボンの内側に押し込んだ。
真後ろにいたサラリーマンには聴こえただろうか。そんなことを一瞬考えたが、次の瞬間、そんなことはどうでもいいと考えた。それより、昨シーズンから一度も脚を通していないズボンをそのまま履いて、長い時間人前に晒されていたタグ出し女の情けなさを思い、消えいりたい衝動に駆られた。

そうこうしているうちに乗り換えのターミナル駅に到着し、改札に向かう人の波に押されながら、もう順番も、速さも、どうでもいい、無事に空港に到着さえすればいいと開き直ってゆっくりと歩を進めた。
改札が近づいてきたので、スマホを入れていた左ポケットに手を入れて改札にかざした。すると、真後ろからハッキリとした声で呼び止められた。

「なんか、落ちましたよ」

振り向くと、中学生くらいの女の子が改札手前の薄汚れた床を指で指していた。見ると、レシートのような白い、少し厚めの紙だった。

『嘘だろう?ほんとに私が落としたって言うの?』

そう心の中だけで独言を唱え、正義感の塊みたいな澄ました顔を背けるように、何も言わずその白いものを摘み上げると、改札を抜けてグングンとスピードを上げてホームに急いだ。


その日、立て続けに受けた親切は、出張前の高揚を鎮め、自らを打ちのめすのに充分だった。
空港のトイレの個室で、ズボンのタグを引きちぎって見てみると値札ではなく、商品番号と素材の成分表で、改札手前で落ちた白い紙はその洋服のブランドだけが記載されたカードだった。なんてことは無いが、人の親切が自身のなかで悪意に変換されて大量の汗をかくに至った。

7番ゲートで五島福江空港の搭乗案内を待つ。暫くすると、現地霧のために発着が遅れるとのアナウンスが流れた。定刻を過ぎた頃には、視界が悪く降りられない場合は福岡空港へ引き返すという条件付き運航となる旨のアナウンスに変わった。

ここに来るまで、多くの失態を重ねてやっと安心出来ると思ったのも束の間、出発が危ぶまれる事態に遭遇するとは…。
なんだか、幸先が悪い。
もう、このまま飛ばないで、元の道を戻ることになるのではなかろうか。
不安と焦りとで、疲れがどっと押し寄せた。と、その時。

「大変お待たせいたしました」

張りのある声が響き、優先搭乗をはじめに次々と人がゲートをくぐっていった。
五島福江空港までのフライト中、何度か霧の中に入ったものの、無事に空港へ降り立つことが出来た。
出迎えに来てくれた観光協会の方がレンタカーを待つ間、霧がかる空を眺めて言った。

「あなた、五島列島に呼ばれてるんですよ。呼ばれない人はね、何度来ようとしても飛行機が飛ばないものなんです」

やっとこの島で少し運が向いてきたみたいだ。
後部座席から眺めた鬼岳の向こうに微かに陽が射している。窓を開け、海から吹いてくる風を感じながら、こんもりとした椿の林を抜けた頃、人の親切に素直に感謝できる心持ちが戻ってきた。

慌てず、落ち着いて。

玄関を閉めるとき、一呼吸して言い聞かせるのが、それからの習慣となった。

日常から離れて、今日も、遠くへ…

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