見出し画像

イツカ キミハ イッタep.97

電話が鳴り止むことはないコールセンターの一室。
ヘッドセットを付けてモニター画面を眺めながら、スクリプトどおりに顧客を案内してゆく。
回答に窮するような質問を受けると、チーフアドバイザーにヘルプを求める。保留音が1分を過ぎると、モニター右上のランプが黄色の明滅を繰り返す。焦る。壁の時計を見る。その隣に表示される待ち呼の数。
春先、特に申込みや問合せが多くなるコールセンターに、20代後半、勤務していた。

入社から数年後、各事業所で受けていた受付業務を集中化するプロジェクトに配属された。
直前に実施された研修で「顧客満足度」をテーマにプレゼンしたのがきっかけだった。
異業種交流の一環で3ヶ月間デパートに派遣され、CS(カスタマーサティスファクション)を学んだ私は、「お客さまの声」を分析・改善に繋げていくCSアナリストという職に就いた。
社内で初のコールセンター化、そして、初めて出来た新たな部署で、日々膨大なデータとさまざまな要望に翻弄されていた。

そんなある日、休憩時間に携帯を見ると、友人数人から着信が3件入っていた。
コールセンター室内には私物の持込みが制限されていたため、個人所有の携帯はロッカーに入れていて着信に応答出来なかったのだ。

なんだろう?こんな立て続けに…

そうチラッと思ったものの、親兄弟ならいざ知らず、緊急というわけではないだろうと思い、仕事を終えてから連絡しようと再び仕事に戻った。
業務終了後、気になって携帯を手にした途端、掌に振動が伝わり、すぐさま耳に当てた。

Nが昨日、亡くなったって…

その先は何と言われたか覚えていない。
気づけばしゃがみ込んで、泣きじゃくっていた。

バカだ、骨髄移植をして順調に回復していると信じて疑わず、病院から足が遠ざかっていた自分を罵った。何が顧客満足だ。友人一人さえ満足に見舞ってもやれない自分を心から恥じた。当時の私は、顧客満足を追うことが仕事満足に繋がり、自らを満していた。

Nはまさに、仕事と趣味を両立させていた私の自慢できる友人の一人だった。そんな彼女が白血病と診断され、入退院を繰り返し、2度の骨髄移植をすることになるなど20歳の時は夢にも思わなかった。

語学堪能で入社早々に米国に渡り、何ヶ月かでプロジェクトを終えて帰ってくると、真っ赤なロードスターで仲間の元に会いに来た。
華やかさはあるものの、至って控え目で自ら自身のことを語るような人ではなかった。
だから、体調について尋ねた時も

「大丈夫よ、心配しないで」と、笑顔で返してくれたりもした。

そのNが28歳の若さでこの世を去ったということを暫く受け留められずにいた私は、葬儀の手伝いから戻っても、もう以前のように仕事に打ち込めなかった。

Nが果たせなかった夢の続きを追おう

亡くなった翌年に、社内起業家育成のためのビジネスコンテストに応募し、選考通過してFS(フィジビリティスタディ)期間として与えられた半年間、全国各地の起業家へ会いに行き、ビジネス提案を行い、専門学校に通った。

この経験によって、世界が大きく開かれ、いかに近視眼的にしか社会を見ていなかったかということを痛感した。そして、同時に自らの未熟さを思い知った。

一人では、出来ることが限られるということ、共感してくれる仲間を見つけること、最後は自身が全身全霊で「やりたい」ことに突き進める勇気があること。

これらを学んで、30歳の自分にはまだ起業は出来ないという判断に至った。
その代わり、多くの人と関わった結果、新たな目標が見つかった。

会社を通じて、社会を変える仕事をしよう


それからは、社外との関わりを継続しながら社内の新しいコミュニティに加わったり、自ら私塾(「羽ばたき塾」という、今思うとかなり恥ずかしい名前にも関わらず、よく参加してくれた若手がいたと思う)で後進育成に励んだりした。

あれから20年、社会を変えるためのプロジェクトに加わり、現在たくさんの方々とお仕事をさせていただいている。

その始まりはNだったと、強く思う。
Nという誇れる友人がいたから。
Nに恥じない自分でありたいと思い続けて、
今がある。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?