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真珠のきらめき 第3章 職場の人々

(前章までのあらすじ ~ 石田は琵琶湖畔に出張し、途中で鳥羽に観光で立ち寄る。ロビーから港町の夜景を眺め、現代の都市が廃墟と化す幻影を見る。時の流れの一点に自分がいると感じる。真珠の島を見物し、昭子の幻影と対話する。)

 石田が事務所に着任して、新しい年度が始まって間もない頃だった。先輩の男性職員が交通事故を起こした。
 幹線道路で右折する際の、対向の直進車の前面にみずから運転する公用車を衝突させてしまった。
 そこは普段から交通量の多い道路だった。石田は仕事でも通勤でも、その道路を使っていた。制限速度をオーバーして走る車は毎日のように見かけている。当然ながら、先を急ぐ輸送用のトラックが多い。先輩職員の事故の相手もトラックだった。交差点で激しい交通の間隙を縫うようにして右折するのは注意を要する。
 直進車が青信号で完全に通り過ぎるまで待てれば、何事も起こらないかもしれない。しかし、通勤時間を過ぎて、直進車の列がまれに途絶えた時などに、隙を見て右折しようとすると、事故が起こる危険性が高い。
 事故は物損事故で済んだ。誰も怪我はしなかった。しかし、その先輩職員は仕事のほかに、その後数日、事故の対応に追われた。警察への対応、相手への対応、職場での対応が続いた。下を向きながら、しかし目の前の用事をそれなりに済ませていく日々が続いた。
 岡村補佐は、他の事務職員に言った。
「事故だけは気を付けてください。仕事のほかに、余計な用事を持たされることになるから。くれぐれも慎重に……」
 実は石田も、この事務所に来る前に交通事故を起こしていた。それは暑い夏に起きた人身事故だった。相手は入院するほどではなかったが、鼻を何針か縫った。石田は無傷だった。過失割合は石田のほうがずっと大きかった。
 加害者には刑事責任、民事責任と行政責任があることを知った。事故の相手との交渉は、時には感情的になり、事故の処理が一段落つくまでは気苦労が多かった

 石田は車の運転には気を付けようと改めて思った。
ある梅雨の季節の蒸し暑い日のことだった。石田は事務所の用事で、ひとりで公用車で仕事に出た。その帰り、事務所のそばの住宅街でカーブに差し掛かった。
 道路の右側に、タクシーがこちら向きで停まっていた。
 左側から、少年が道路にわずかに走り出た。石田はスピードを緩め、その場所を通り過ぎた。
 その時、ドアを開けて座席にすわっていた運転手が、道路の反対側に向かって叫んだのが聞こえた。
「ぼくーっ」
 そのあと石田がバックミラーを見ると、少年が倒れていた。子どもたちが2,3人集まった。声をかけた運転手も走り寄った。交通事故か。車が少年をはねたか。
 自分がはねたのか、と石田は思った。はねたにしては、感触はなかった。心配になって、現場から2,30メートル行ったところで、石田は車から降りてみた。
 大人たちがさらに駆け寄った。10数人の人々が、青いシャツの少年に手を伸ばした。
 自分がひいたのなら、このままだとひき逃げになってしまう。人だかりの中の大人の男がひとりだけ、こちらを見た。あとは石田の方を指さす者はいなかった。
 青い乗用車が1台、ウインカーを出して駐車していた。見ているうちに、助手席の年配の女性が降りて、少年のところに走っていった。
 石田は仕事の途中だった。野次馬のひとりになるわけにも行かない。ひいた覚えもなく、呼び止められたわけでもなく、人から見つめられているわけでもない。そのまま事務所に戻った。
 しかし、心配で、いやな感じが残った。薄気味悪かった。はっきりと分からない。あの車がひいたのか。自分の車がひいたのか。
 しばらくすると、救急車のサイレンの音がした。あの少年が病院に運ばれるのだろう。
 自分の車の後続車が、道路に飛び出してきた少年をはねてしまったのか。タクシーの運転手は、少年に呼びかけたが、間に合わなかったか。少年は車を見ないで走り出したのか。状況ははっきりとは分からない。
 寸前のところで、自分は事故の当事者、加害者にならずに済んだのか。当事者になるのとならないのとでは大違いだ
石田は、岡村補佐に、その体験を話した。
「自分の車が接触したのか、どうも分からないんです」
 補佐は怪訝な表情をした。
「でも、自覚がないんだったら、事故とは無関係なんじゃないの?」
「そうですねえ」
 石田は、首をかしげて苦笑いした。
 車の運転は、人間の勘に頼るところが多い。交通事故の検証などで、何かを見たとか見なかったとか、先に見たとか、後に見たとか、そんな気がするとか、あいまいな記憶が問題になることがある。ぶつかった気がする。ぶつかってきた。気が付いたら、ぶつかっていた。
 人間は、自分の本来の行動の速さを越えた乗り物を運転するようになってしまったのかもしれない。乗り物の速さが引き起こす出来事に、感覚がついていけないのかもしれない。
あの去年の暑い夏の事故を思い出し、苦痛を味わった。

 事務所には、傷ついた野鳥を見つけたなどと、住民から通報が時々入ってくる。石田の担当する自然保護の仕事のひとつが、野生動物の保護だった。連絡を受けると、現場に動物を預かりに行く。怪我や病気ですぐに治せるものは、事務所の近くの獣医に任せる。回復を待って、自然の中にまた帰す。
 しかし、獣医が休診の時は、診療が可能になるまで臨時の措置として、職員が自宅で預かる。正式な業務とは言えないが、現場の事情で仕方がない。
 石田も一度預かった。こんな仕事は初めてだった。事務職員として自分は採用されたはずだが、業務の範囲も幅広いということかと首をひねる。幸いに、預かった野鳥は小さくて、可愛くて扱いやすかった。
 ところが、普段はお目にかかれないような動物が保護されて、その姿を目の当たりにすることもある。ある時には、トビだったか、ワシタカ類を、篠田が預かって戻ってきた。 段ボール箱に入っている。羽が傷ついていて、飛べないらしい。両手で抱きかかえるくらいの大きさはある。
 毛並みが良いし、間近で見るのは珍しいため、石田が野鳥の体に触ろうとした。野鳥はすぐに鋭いくちばしで、かみつこうとした。
「気をつけた方がいいですよ」
 篠田は軍手をしていた。
 体が大きくて、野生的な目つきをしている。ぎょろりと人を見る。体も、節々も太い。動きも鋭い。
 人に見つけられ、捕まえられて、びくびくしている。目をぱちくりさせて、周囲の人を、隙あらば攻撃しようとしている。足の爪は、硬くて鋭い。くちばしは、大きくて、尖っている。人の手など、すぐに傷ついて、出血してしまう。下手をすれば、肉をはぎ取られそうだ。
 篠田が解説した。
「普段は、上空を旋回して、鋭い目で地上の獲物を探しているんですよ。ネズミなんか見つけると、急降下して、足でぐいっと捕まえると、小さい動物はそれだけで、太くて鋭い爪で体をえぐられて、おしまいになっちゃうんです。そのまま巣に持ち帰って、えさにして食べたり、ヒナにやるんですよ」
 傷ついたワシタカ類を長期で預かるとなると、事務所や獣医では手に負えない。それなりの施設に預けなければならない。これには自然保護センターという、事務所とは別の施設があった。そこでは動物の専門家が常駐し、飼育できる設備を備えていた。ただし、遠く離れた山間部にあり、事務所から車で片道3時間かかった。

 石田は初めて、傷ついた野鳥を保護センターまで運ぶことになった。運転手の佐藤とともに、長距離の出張に出た。車は、所長が主に利用する大型のバンだ。
 往復6時間近く、車中で2人で過ごす。小さな町を通過して、田んぼの中の国道を抜け、また隣の小さな町を通過する。
 佐藤は、しわが寄り、日焼けしている。石田の父親くらいの年だ。目つきは鋭く、ぎょろついている。
 佐藤は、時間を持て余すのか、若い石田に体験談を語った。
「昔は、おれらも、女っこ、かまっててよ」
 石田は、佐藤が何を話し出すのかと思って、聞き耳を立てた。
「悪い仲間いたから、娘っこ、手出して、みんなで回しちまってよ」
「そうなんですか?」
 石田は驚いて、運転する佐藤の顔を見た。
「もうその頃は、おれらも若かったし、悪ガキだったしよ、戦争中だから、食う物もねえし、警察も、それほどうるさくなかったしなあ」
「はあ」
 輪姦か。この人は悪い人だ、こんな人が自分と同じ職場に雇われているのか。若い娘を手籠めにした、かつての不良。今なら手錠をはめられ、刑務所に入れられるかもしれない。しかし、戦争中は、日本人が戦地で外国人を殺している時代だ。平和な今とは、状況が違う。社会が混乱していたか。小さな犯罪は見過ごされたか。いや、しかし平時の今でも、表に出ない性犯罪はあるだろう。
「でもなあ、今から思うと、かわいそうなこと、しちまったかなあって思うなあ。泣いててよ」
 石田は佐藤がどうして自分にそんな話をするのか分からなかった。自分は悪くて強いんだと人に分かってもらいたいのかもしれない。また、そういう風に分からせるべきだと考える人なのかもしれない。そして、この日から佐藤に対する見方が変わった。

「それは、そこに置くんじゃないの」
 給茶室で、そのバイト嬢は、すぐそばで石田に言い放った。冷たい声で、厳しい態度だった。目が三角になっている。
 石田は、一瞬ひるんだ。緊張した。あっけにとられて、言い返した。
「どこに捨てるの?」
「自分で捨てに行くんだよ。人にやってもらおうなんて甘いよ」
 石田は、とりあえずジュースの空き缶を、テーブルの上から採り上げた。ゴミ箱を探して、捨てに行った。
 何だか、情けなくなった。
 実は、この職場の習慣は、どうなっているのか、分からなかった。以前の職場では確か、
 バイト嬢がテーブルの上にたまった空きビン、空きカンをまとめて捨てに行っていた。ここではそうではないらしい。
 最初から仕組みが分かっていれば、自分で捨てに行く。このバイト嬢は、人の心中も確かめないで、勝手に石田のことを、他人任せのわがまま者と決めつけているようだ。しかも、口ぶりが粗野だ。

 その日は、ずっと不愉快な気分だった。驚いて、あきれて、腹が立った。
 何なんだ。あの小娘は。気の強い女だ。あの口の利き方は、何だろう。
 まだ知り合って2,3か月しか経っていない。ぶしつけだ。
 しかも、バイト嬢は石田より5,6才年下だ。身分はどうかと言えば、2人の間には正職員と臨時職員という違いがある。目上の者が、目下の者に指図された。正職員を何だと思っているのか。あんな小娘に舐められた。
「何だ。その口の利き方は」
 そんな風に、ひと言、言い返してやると良かったか。いや、自分がまともに相手にするような人物ではない。そう考えた方が利口かもしれない。
 他の職員は、あの小娘の礼儀知らずの一面を知っているのか。知っていて、放置しているのか。事務所の幹部職員も、バイト嬢たちが若いから本気で相手にせず、放っておくのかもしれない。
 どうして、あんな女を雇っておくのか。誰か地元の有力者の口利きで、職場に入ってきたのか。
 そのバイト嬢は、外見は他のバイト嬢に比べて、おしゃれで少し見栄えがする。しかし、美人と言うほどではない。釣り目で、外見は少し冷たく見える。普段から、気取った素振りは見せているように感じられる。
 男性職員の大半は、バイト嬢たちに気を使っている。紳士的なのかもしれない。時々、そんな風景を見かける。ちやほやされて、のぼせ上がっているのか。
 石田は、バイト嬢たちにはあまり関心を示していない。興味があるのは、職場の外の女性たちだった。そのバイト嬢にも恋愛感情などは持っていなかった。バイト嬢たちを、ちゃらちゃらした若い娘たちと普段から見ていた。あるいは、そんな普段の態度がバイト嬢の反発を買っていたのかもしれない。

 常識がないのか。世渡りの仕方も分からないのか。礼儀作法もそれほど知らないのか。口の利き方で、人間関係が悪化して、結局自分が困るということが、経験で分かっていないのかもしれない。
 臨時職員で、どうせ短期間で辞めてしまうという気安さも、あるのかもしれない。
 石田のような若い職員は、特に新参者は組織の下っ端で、そんなに気を使って扱う必要はないと考えているのかもしれない。
 バイト嬢たちは、組織の中の人間の上下関係が分からない。というより、もともとピラミッド構造の外にある。
 婦女暴行をしたという佐藤と言い、言葉使いを知らないバイト嬢と言い、山間部に暮らす粗野な人々の典型なのか。運転手やバイト嬢の立場で、正職員を中心に出来た組織に自由にものを言える意識があるのか。それとも持って生まれた性格か、育ちか。石田は、彼らとの距離を感じた。

 石田の携わる自然保護事業の関係団体の一つに狩猟団体があった。一部の団体は年に一度、行政や警察の関係機関を招いて会議を開いた。それぞれの機関は、狩猟の許可、有害鳥獣の駆除、自然保護活動などで関係があった。石田もこの会議に参加した。
 会議の内容は組織の活動費の予算、決算、事業計画、事業報告などだった。
 会議の終わった後は懇親会が開かれた。世間の目が昔と違って厳しいこともあり、公務員の側は、応分の飲食代を支払った。料理店で、近くの川の名物の、フナの煮付けが出された。石田は、それを苦く感じた。一方、出席していた狩猟団体の人たちにとっては、酒の肴に合う好物らしかった。
 2次会に出かけた一行は駅前のスナックに入った。警察の署長も、石田の事務所の所長も、狩猟団体の幹部も参加していた。一同は酒が進み、持ち回りでカラオケを歌った。和気あいあいとした雰囲気だった。
 警察関係者も、ほろ酔い気分で盛んに話した。石田は、警察関係者との酒宴に新鮮味を感じた。
 狩猟団体の役員で、地域の顔役らしい市会議員の男が、にこにこしながら酒を勧めた。
「署長さんも責任ある立場ですから、時々気晴らしも必要でしょう?」
警察署長は苦笑いしながら言った。
「酒を飲んでいても、色々な事件、事故がありますから、いつ緊急な連絡が入るかわからないので、なかなか酔えないんですよ」
 石田は、納得したように頷いた。

 5月の連休に、石田たち職場の仲間は、自然保護員のひとりの小田から自宅の食事に招かれた。
 60を過ぎた小田の自宅は農家だった。小田と事務所の職員は、長い間に個人的な付き合いになっている。しかし、業務上問題になるような人間関係にはなっていない。ほとんど毎年、職員の顔ぶれは人事異動で少しずつ変わっている。
 小田の自宅の敷地の先には大きな沼があり、辺り一面が湿地帯になっている。
 かいぼりの作業が始まった。小田と地元の仲間は手慣れた様子で、大きな音を立てる水中ポンプを使い沼の水を抜き始めた。
 水中ポンプは5,6メートルの長さがある。沼には、近くの川の水が流れ込んでいる。予め川と沼の間に土塁を築き、流れがせき止められている。そこに、太い円筒形の水中ポンプが斜めに寝かされている。吸水口が沼の底に沈められ、そこから吸い上げられた泥水が、排水口から川の流れの中に、どんどん吐き出される。
 沼の水は、見る見る減っていく。水面が下がり、沼の底が徐々に見えてきた。茶色の泥が一面に広がっている。
 沼の中の生物は、行き場を失って、あちこちに姿を現す。水たまりや泥の中で動いている魚を、小田たちは、にこにこしながら手づかみで捕る。
 コイ、フナ、ナマズ、ウシガエル、ハヤ、ドジョウ、ザリガニ、その他の雑魚。バケツやザルの中は、沼の恵みでいっぱいになる。
 石田たちは沼のほとりに立って、作業の様子を眺めていた。
 石田も子どもの頃、こういう、かいぼりのような営みは経験がある。懐かしく思い出す。都会で育った子供には分からない。田舎の子どもの泥んこ遊びのひとつだった。

 沼の恵みは小田の働きで台所まで運ばれ、小田の妻が料理する。ほとんどは天ぷらで揚げられる。
 野趣あふれる料理が座敷に運ばれ、小田が地酒の一升瓶を持ち上げて披露する。やがて、どんちゃん騒ぎになる。
 川魚は今の石田には、泥臭くて口に合わない。子供のころと違って、今風の洋食の具材、料理に味覚が慣れている。
 石田たち若い職員は、課長や小田から早く結婚しろと言われる。
「昔は、いつまでもひとりでいると、名刀がさびるって言われたもんだよ」
 小田は下世話なことを言って、男たち一同がわっと笑う。
「男は、そういうもんだよ」
小田はおどけて、目を丸くする。
 そこに、小田の妻が新しい川魚料理を運んでくる。石田はふと、夫婦の顔を見比べる。小田は名刀が切れるうちに、所帯を持ったらしい。
 話題は小田の息子に移った。
「うちのも、困ったもんで……」
実は息子も、30才を過ぎているが未婚だった。息子は石田と同じ公務員をしている。いつまでも身を固めていないのが、小田の悩みの種のひとつだった。
 息子は後になって、宴席に顔を出した。
 おとなしそうな性格に見える。父親は地元で色々な役職について、地元の名士というか、活躍しすぎている感がある。それが息子を少し遠慮がちにさせているようだった。

 夏になって石田は、高原の別荘地で行われたテニスの合宿に参加した。以前の職場の若い仲間が主な参加者だった。懐かしい面々に再会した。
 バイト嬢の春子は、石田には、今の職場のバイト嬢たちよりも、顔も人柄も可愛らしく見えた。
 白くて短いスコートをはいて、テニスコートに立ち、形の良い脚を見せていた。
「そろそろ、見合いの話とかあるの?」
 石田は、若者に人気のありそうな話題を、春子に向けた。
「見合い相手は農家の長男が多くて、その気にはなれない」
 春子にとって、サラリーマンの結婚相手を見つけるのが、役所でバイト嬢をする目的のひとつらしかった。
「そのスコートの下って、普通の下着なの?」
 石田は、そばに立っていた春子のスコートの裾の辺りを見た。特に、春子に恋愛感情は抱いていなかった。しかし、性的な好奇心はあった。そんな石田の気持ちを、以前から春子も分かっているようだった。
 春子は、日常とは違う環境で浮かれていたのかもしれない。
「見せてあげようか? ほら」
 スコートをめくって見せた。
 石田は、目の前の白い太ももとそれをおおう下着に、心が動いた。
 後で石田は、春子のうわさを仲間内から聞いた。職場に若い美男子の職員がいて、春子はその男に夢中になった。結婚相手の条件としても満足できたらしい。しかし、すでに男には交際相手がいた。男に対して積極的な行動に出ているが、悩んでいて、3角関係になりつつあるとのことだった。

 石田は時々、ある女性を思い出した。
彼女は、今の事務所に転勤してくる前の年に、以前の職場で人手のかかる作業があった時に見かけたアルバイトの女性だった。
 顔つきも姿かたちも、ミニスカート姿も魅力的だった。
 彼女は、どうやら石田の職場のアルバイトの女性の後輩らしかった。接点があるかに思われたが、心に残ったまま、石田には、彼女とそれ以上接触する機会はなかった。
 それでも、当時のアルバイトは、近くの短大や各種学校の学生が多かった。そのため、彼女が石田の町か近くの町に住んでいて、いつか再会できるような気がしていた。

 夏が去り、初秋の兆しが見えた。ある日の夕方、それは仕事帰りの出来事だった。
 石田は、事務所に車で毎朝通う途中、ほとんど同じ時間に市街地の大通りを通る。
 いつもの行程で、歩道を歩いている器量の良い女性に目が留まった。駅からの帰り道らしかった。ブラウスとスカートを着た姿かたちが整っている。その顔には見覚えがあった。
 そこで、車を彼女の歩く方向と同じ方向に走らせてみた。デパートの駐車場を過ぎて、ホテルの角を曲がった。彼女の横を通り過ぎた。付近の公共施設の前で停止して、車のライトを消して待った。
 すると、彼女は、そばの商店に入った。あそこの娘か、と思った。
 あのアルバイトの女性だった。あれから4年くらい経っている。もう24,5歳かもしれない。近くの町のどこかに勤めているのか。恋人はいるのか。
数日後、石田は偵察のため、その商店に行ってみた。知らない素振りとして、ウイスキーの瓶を買ってきた。店の奥には茶の間に仏壇があり、年配の婦人がいた。彼女の姿はなかった。古くから商店街で商売をしている家らしかった。
 2,3週間後、石田は再び彼女の姿を見た。初めて見た時、柔和な表情で器量が良かったため、一緒にいた男の先輩は言った。
「ミス何とかみたいだな」
 そう言ったのを覚えている。
 やはり彼女は美人だと改めて思った。顔つきも体形も、心惹かれるものがあった。おしゃれで、スカートから出た脚も、形がよく白かった。
 ある日、また両親が石田に早く結婚しろと言った。そこで、あの商店の美人娘のことを考えた。
 職場の先輩は、面食いらしい石田を見て冗談を言った。不美人は結婚して2日で慣れるが、美人は3日で飽きる。一緒に暮らせば、百年の恋の相手も家族の一員になる。美人にこだわるのもいいが、ものは考えようだということか。
 石田は、結婚相手は決まらなくても、交際相手くらいは決めておきたいと思った。意中の彼女に付き合ってくれないか聞いてみようかと考え始めた。ラブレターを書くことを考えた。どんな女性なのか、調べてみようと考えた。

 石田は、そのあと何度か時間を作って、彼女の後姿を、車や電車に乗って追ってみた。アルバイトをしていた女性は学生から社会人になり、駅まで歩いて電車に乗り、どこかに勤めているらしかった。
 石田は、自分が休日の土曜日に、出勤するらしい彼女の後を追った。同じ電車に乗り遅れ、自家用車で電車の進む方向に乗り出した。隣町の駅の広場で、彼女の姿を見つけた。彼女はどうやら、他の社員と共にバスに乗り込むらしかった。
 慰安旅行かもしれない。彼女は地元の銀行の行員と分かった。少し高い鼻と少し大きな腰を改めて見た。家柄、学歴、男性関係などは分からなかった。

 石田は、交際相手はあんな女性ならばよいと思って、その女性あてに手紙を書いた。突然の手紙で申し訳ないが、自分の勤め先や連絡先はどこどこだが、あなたには交際相手は、もういるのか。日曜の午後、どこどこの喫茶店で待っています、と書いた。
 ある朝、数日迷った後で、手紙を手渡すことを決心した。
 彼女は朝の出勤で人通りの少ない歩道を歩いているから、人目を気にせず手紙を渡せる。恥ずかしいことだし、それほどの相手ではないかもしれない。振られたら、また出発点に戻る。身元も良くわからないが、若い男が若い女に交際を求めるのは、それ自体は悪いことではないと思った。
 朝の出勤時間に、道路際に自分の車を停めて、駅に急ぐ彼女に駆け寄った。声をかけ、手紙を渡した。
「すみません」
「はい」
「あのう、これ、読んでいただきたいんですが」
「はい」
 彼女は一瞬戸惑ってから、それを受け取った。
 数日後、その女性から手紙の返事が来た。彼女敬子という名前だった。地元の進学校を出て、短大を卒業し、銀行に勤めていた。
 内容は、手紙はうれしかった、と書いてあった。しかし、自分には、付き合ってはいないが好きな人がいる。かっこよくて、人気のタレントに似ている。そんなわけで、テニスの友達程度なら良い。いつでも電話してほしい。そういう内容だった。
 良い結果なのか良くない結果なのか、よくわからなかった。石田は落胆し、自分の恋心の前途は暗いと感じた。とりあえず様子を見ようかと考えた。いくら失恋しても、また新しい恋が生まれるのかもしれない、と思った。しかし、それでもまた泣くこともあるのだろうか。

 その後、敬子の家に電話してみた。夜の8時頃だったが、家人から、敬子はテニスでまだ帰ってこないと言われた。
 その次に電話した時には、銀行の残業で帰ってきていないと言われた。
その後やっと、敬子と話すことが出来た。恋愛体験も日常生活も、今好きな人の話題も、快活に早口でしゃべってしまう女性だった。まだ子供っぽいところがあるように感じられた。
「その人とうまく行くといいですね」
 石田は会話の最後に、話の流れでそう言ってしまった。

 石田は、翌年の正月、諦め半分だったが事の成り行きで、敬子に年賀状を出した。しかし、その返事は来なかった。
 そのあと、また電話してみた。妹だという声にそっくな女性がでた。
「姉はスキーに言っています」
という返事だった。テニスに行き、スキーに行き、スポーツ好きで活発な女性らしかった。石田はまた、敬子の整った顔立ちや姿を夢想し、あきらめたくなかった。
 別の日に電話して、敬子本人と話すことができた。
「私、べらべらしゃべる性格で、見掛け倒しで、石田さんはもう電話くれないかと思いました」
「そんなことはないですけど……」
 敬子は自分からおしゃべりを始めた。
「バレンタインデーのチョコレートは、大勢の人に渡しました。今は、この間話した男性とは別の男性を好きになっています。タレントの○○に似ているんです」
「私、若いでしょう? 」
 敬子はもうひとり他のタレントの話題も出して尋ねた。
「石田さんは分からないでしょう?」
 石田は、せっかくの縁だからと思い、付け加えた・
「一度、どこかで会ってくれませんか?」
「でも、今はスキーで忙しいですから。それに、私、会っても、電話と同じで自分の恋の話しかしないですから……」
 断りの返事だった。
 石田は、敬子の人柄や恋愛関係に失望した。
昭子との別れの悲しみを思い出した。敬子にのめりこんで、思いつめた挙句に別れて、また大きな悲しみに襲われるのを恐れた。その絶望のふちに近寄りたくないと思った。今なら諦められると感じた。
 その勢いで、別れの手紙を書いて敬子に送った。
 その晩は興奮して眠れなかった。


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