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ツバメの来る日 第6章 デートの場面

(前章までのあらすじ~ 青木は電話で由美からの断りの言葉を聞き、落胆する。由美とのこれまでのやり取りを回想する。北陸への出張の途上で中西に10年ぶりに再会するが、失恋の感傷旅行になる。その足で万里の住むらしい大阪に回り、過去を回想する。由美に未練を感じる日々が続く。職場の大塚補佐の縁談を断る。職場で由美のそばにいた同期の村山と、由美のことは語らず友人付き合いを続ける。実家の縁談を断る。相談所の紹介で、2人の女性と掛け持ちのデートをする。万里の消息、現住所を知る。)

 翌年の年頭、母親が見合い写真を持って来た。青木はその場で断り、母親からは、またくどくどと小言を言われたが、やはり断った。
 由美はまだ、青木の心の中に生きていた。由美を忘れられずにいるのに、無理矢理に他の女性に目を向けさせようとする周囲の態度が、意にそぐわなかった。周囲の人間は、自分の胸中を理解してくれないと、青木は思った。
 時々、不意に由美に電話したくなる衝動を覚えた。受話器を取ってボタンを押せば、自動的に由美に回線がつながる。今までに何度もしてきた簡単な作業だった。それが、今では禁じられた行動になってしまったことを自覚した。
 
最近は、役所でも土曜日が閉庁になった。青木はゆっくりと家で過ごし、そのあと女性たちのことを思い悩んで、町の中をぶらついた。悩んでも何も解決しない。少しだけ実家に顔を出した。
 縁談話は、世の中の不幸や心の中の恋愛の悲劇とは関係なく進行する。
 今回は滅多に会うことのない親戚からの紹介だった。東京の短大を出ていて、きちんとしていて、機転が効く25才のお嬢さんという触れ込みだった。青木は少し興味を覚えた。母親の縁談話はもう数件断っていて、そろそろ会ってみようという気になった。
 
日曜日、見合いの日を迎えた。ところが、このところ色々あって疲れていて、寝過ぎて、母親からの電話で起こされた。しくじった。参った。
 親戚は気を遣って、すぐに席を外した。見合いの相手は思ったほど美人ではなかった。しかし、かつて見合いしたあの英子より、機転が働くように見えた。少し自分に自信があるようだった。長女で落ち着いている。
 翌週、母親から連絡がきた。日曜日に青木が見合いした女性に、また会ってくれるように頼んだらしい。しかし、タバコが嫌いで返事がもらえないらしい。青木は、あの日、随分タバコを吸った。すぐに判断がついた。こちらも放置する。執着もない。
 
土曜の午後3時、出勤していた青木の職場に電話がかかった。2回鳴ったところで、先輩の職員が出ると、ぷつりと切れた。青木のいるところには、職場でも自宅でも怪電話がかかってくる。普通の人は、用があれば電話のベルだけ鳴らして切ることはない。都合が悪くて話すのをためらう人間が、こんな行動をとるのだろう。
 夕方、また懇意の秋山と電話で話した。9時に喫茶店で会う約束をした。すると、そのあと電話があり、1回のベルで出たら、相手は切った。この相手は、やはりベルだけ鳴らしてすぐに切ろうと最初から決めていたようだ。誰なのか。怪電話は、1年以上前からかかっている。
 青木の自宅に電話するのは、秋山、母親くらいだから、相手の名前も電話をかける意図も分からない。ひそかな恋心の持ち主かという推測は持てる。
あの怪電話は、またかかってくるのか。知り合いの女性が、おそらく職員録でも見て、青木のアパートに電話してくるのか。青木に何か用があるのか。色恋の用件か、別の用件か。
 
 実家に洗濯物を取りに行き、母と会って電話の件を話すと、随分と内気で純情だ、と言った。相手は女性で、青木に思いを寄せていると推測している。
その日、何と本物の間違い電話がかかってきた。3回のベルが鳴ったところでこちらが出た。「誰々さんいますか」と相手が言い、「いません」とこちらが言い、番号を確認し、二言三言言葉を交わした。
あれが本当の間違い電話だ。ベルを鳴らして切る、こちらが出ると切る。そんなやり方は間違いではなく、何かの理由でわざとする電話だ。それとも、今回の間違い電話は、怪電話の相手かその知人が、わざと間違い電話を装っていたのか。そう青木は勘ぐった。
 
その朝また、間違い電話があった。
「あたし。ゆうちゃん?」
「違いますけど」
「あ、すいません」
 迷惑な電話だと思った。
 その日も、役所は閉庁だったが、青木は仕方なく出勤した。仕事が間に合わない若い職員が2,3人来ていた。その同僚と夜食をとって、レストランで話し込んでいたら10時になった。
 帰宅すると、セットしておいた留守録が入っていた。若い女2人の声だった。青木は耳を澄ませた
「向こうにも聞こえてる?」
「陰で聞いてるんじゃない?」
青木は、自分の番号に、この女たちはかけていると分かった。何を話しているのか、はっきりとは分からない。電話口で2人はキャンキャン話している。
 その後、秋山から電話があり、5月のゴールデン・ウィークは、2人で奈良に観光旅行に出かけようということになった。
 
 職場の仕事は3月の年度末を迎え、総務課の由美の女友だちも、アルバイトの雇用期間が切れたらしく、職場から姿を消した。青木は、またひとり由美を思い出させる人が目の前から消えたと思い、寂しさを覚えた。
 母親によると、実家の近所の安田はその後、見合い話を1件、母親のところに持ってきた。多分、安田は青木の上司と同じように、由美の件がだめなら、次の女性を紹介しようと心配りをした。母親は青木の消沈した気持ちを伝えて、丁寧に断った。
 青木は失恋の落胆から容易には立ち直れず、他の女性に目を向ける余裕はしばらく持てなかった。青木は感じた。恋心というものは、こっちがだめなら、すぐにあっち、というわけには行かない。自分の気持ちと、周囲の思惑は、明らかにずれている。どうして周囲の人は、そのような心情の機微を理解しないのか。
 青木は、周囲の無理解の理由を、そうした無神経の他に、微妙な事情があるのかもしれないと想像した。
あるいは、上司たちのところには、うちの娘に誰かいい人を、というような、適当な結婚適齢期の男を求める知人からの相談が、普段から集まっているのではないか。そのような頼み事に、うまく答えて対面を保ちたいという気持ちがあるのではないか。その場合、青木のような、恋愛に失敗した男に、再び成功の機会を与えられれば、一石二鳥ということにもなる。
 
 ある冬の夜、青木は残業を終えて大通りの歩道を駅に向かっていた。厚いコートを着込んで、人混みをかいくぐりながら歩いていた。
 前方の歩道に、一組のカップルの乗った車が横付けになった。人混みの中だったが、助手席から見覚えのある女性が降りてくるのが見えた。運転していた男も女性のあとについて、ハンバーガー・ショップに入っていった。
 青木は薄闇の中で、街の照明に照らされた男女の光景に自分の目を疑った。建物の影に身を隠して、2人が店から出てくるのを待った。
 ほどなくカップルは、店から出てきた。それは由美だった。由美は、以前の通り長い髪をなびかせ、大股で颯爽と元気そうに歩いていた。立ち止まると、買ったものを男に預け、歩道にある電話ボックスにはいった。快活そうに誰かと話しているのが、ガラス越しに見えた。男は外に立ってよそを見ながら、由美の電話の終わるのを待っていた。
 2人は青木の見守る中で、また車に乗り込み、その場を走り去っていった。2人が乗っている車は旧式のもので、その男の運転で荒い調子で発進していった。
 青木は衝撃を受けて、しばらくその場に立ち尽くしていた。あれが間接的に自分を悩ませていた、見えない由美の彼氏の正体だったのか、と思った。
相手の男は、夜の薄闇の中で、遠くから姿を見ただけだった。体格が良くて若々しく、たくましく見えた。しかし、美男には見えず、かっこうよくも感じられなかった。パンチパーマで、セーターとジーパンとスニーカーという出で立ちだった。紳士的とか上品とかいうような形容よりも、野性的で粗野な雰囲気という表現の方が似合っていた。
スーツにコートを着た青木とは違い、ありふれた街の若者に見えた。
できれば、もっと魅力的な男性を相手に戦って敗北したかったと思い、少し失望した。
 彼氏はこれまで気になる存在ではあったが、最初から争うつもりのない相手だった。闘志をむき出しにして立ち向かう目標のような敵としてとらえていなかった。
 それは、青木をそこまで発奮させるほどの魅力が、恋の目標の由美になかったというわけではなかった。すでに他人のものになっている女性を欲しがって、悶着を起こすような、浅ましい人間になりたくないという、青木自身の自尊心によるものだった。
それにしても、2人がこの晩にどこから来て、どこに行くのか、青木は考えると、いやになった。そこは男女のむつみ合う場所なのか。
 
 青木は、以前に由美と交わした電話での会話を思い出した。
「彼氏って、どんな人なんですか?」
 由美は快活な口調でいった。
「面白いんです」
 青木はそのとき、奇異な念を抱いた。
由美は彼氏のことをほめるのに、頭がよいとも優しいとも、男らしいともかっこいいとも言わず、単に面白いと言った。その面白さとは、滑稽な言動を指すのか、それとも興味を引きつける人格を意味するのか。分かったのは、とにかく由美は彼氏に心を引かれているらしいということだった。
 青木の頭の中をさまざまな想念が駆けめぐった。もしかしたら自分は、彼氏と比べて面白くない、すなわち由美の気を引かない、つまらない男なのかも知れない。しかし、これまで長いうちには、自分も女性から面白いと言われて好意的に愛想笑いをされたことはある。それに、好きな女に対しては、男は故意に優しくもなれるし、面白くもなれる。要するに、愛情を言葉にしたら、面白い人という感想になったということか。
 自分はしかし、女性から面白いと言われて、愛されることを望むような種類の男ではないような気がする。むしろ、尊敬されて思い慕われるような男でありたい。その点では、由美と自分の持っている恋愛の形が、もともと合っていないのかも知れない。
 
青木はこの夜、由美が青木に見せなかった側面をかいま見たような気がした。
由美は青木に見られていることに気づいていなかった。それだけに、その姿は由美の本当の姿であるような気がした。
由美はこれまで電話で、悩むような、ためらうような、男性から慕われる女性が見せる抑えた口調で、数々の言葉を青木に伝えてきた。その口調は、交際相手を連れて夜の街を闊歩する陽気な表情からは遠く離れているように思えた。
 
 青木は久しぶりに東京に出かけ、学生時代の友人と繁華街を歩いて、夜になると風俗営業の店に入った。容姿の整ったホステスと話し込んで、アルコールに酔うまま大騒ぎをし、久しぶりに憂さを晴らした。店を出ると、友人のアパートに泊まり込み、遅くまで共通の話題をあれこれ話し込んだ。
 由美のことで悩む日々が、しばらくの間は遠のいて、気分が一新した。自分は今更ながら、少年の恋みたいな純情な芝居を演じてしまったと思った。20才の頃から、心から愛せる人を捜し続けて、もう33才になってしまった。
 
 そのうち、職場は例年どおり新年度を迎え、青木の周囲は慌ただしかった。
 あの同期の敬子から、青木の職場に電話がかかってきた。
「毎年恒例の大学の同窓会の件なんです。今年、幹事になっちゃったんですよ」
 敬子は、青木との一件には、もうこだわりはないようだった。
 中心街のすし店の行われた会合では、新人職員も顔を見せた。清水という職員は、愛想良しで、礼儀正しかった。青木の職場の関連の事務所に勤務するらしかった。
清水の顔つきは、新人らしく、絵の具の染みのついていない白い画布のようだった。それは酒が進むにつれ、赤ら顔になった。青木は、何年か前の自分を見るような気がした。
「これから、いいことも良くないことも、色々あると思うけど、がんばってね」
 青木が言うと、清水は元気な笑顔で応じた。
 
その後、職場で係の職員の飲み会があった。
その席で、青木は最近の不審な電話のことを話した。後輩の女性職員の2人が、先日、留守録に電話したことが分かった。2人は、自分たちの会話が少し録音されたかもしれないと明かした。青木は、2人が自分をからかったのかと思い、同時に多少とも自分に興味があるらしいことが分かった。3人とも独身だった。
青木はいつも思っていた。好きな女性は遠ざかっていくのに、好きでない女性は近づいてくる。
 しかし、2人は自分たちのいたずらは、今回が最初で最後だと言った。それなら、他の怪電話は、誰のせいなのか。
青木が休日の10時過ぎに目覚めて、顔を洗っていると、電話のベルが鳴った。出ようとしたら、2回鳴って切れた。誰か分からない。また、職場の後輩の女性のいたずらか。もうしないと、言っていたけど。
試しに、職場に電話してみた。10回鳴らしても、誰も出ない。どうやら、職場の女ではないらしい。
初めて仕返しをしたような気分だった。朝の起き抜けで、空も晴れていたから、自分はあんなことをしたのかと思った。
 
 五月晴れの空が目立つようになった頃、青木は秋山に会って、由美の件を話した。秋山は自分なりに事の成り行きを分析した。
「どうも、青木は、まだ気持ちが揺れてるね。彼女に、まだ期待を寄せているよ。それじゃあ、うぬぼれで、お人好しだよ。彼氏とデートしている彼女の姿を直視すべきだと思うよ」
 青木は今度は、東京の友人と会った。いつかと同じように、歓楽街の風俗営業の店でアルコールに酔い、接待の女性と面白おかしく話して遊んだ。また友人のアパートに泊まった。
 その友人は率直な性格で、青木の話を聞いて現実的な観点から意見を言った。
「その子は確かに、お前に少しは気があるかもしれないけど、彼氏とは夜、ホテルに行っているだろうな」
 青木は、そうとは限らないんじゃないか、という否定の言葉を飲み込んだ。考えたくはないが、それはありうる、世の中はそういうものだ。
 
 あるとき、青木は用事があって車で外出したついでに、由美の家を確かめにいった。
 夜中に、その家が見える離れた場所に停車して、住宅街の闇の中で様子を窺った。自分が愚かで不謹慎なことをしているという自覚はあったが、その時の衝動は、冷静な理性に優先した。
 青木は車の中で考えた。もう由美は、あの男と性の関係を結んでいる。手遅れだ。手に入る見込みのない由美を、いつまでも真剣に愛している自分は、みじめで哀れだ。
相手を的確に選択していれば、もっと順調な恋の道のりを歩めたかもしれない。それなのに、お門違いに手を伸ばしてしまった。どうしてこれまでに、もっと別の方法を採って、別の視線で、別の日々を作り上げてこなかったのか。貴重な時間を割いて、結実しない恋の苗木に養分を与え続けてきた。
 
 一週間後、青木はまた夜中に、住宅街の由美の家のそばに車を停めていた。見知っている由美の車が、車庫の中に停めてあるのが見えた。その車が今にも動きだし、由美が今夜の彼氏とのデートの場所に出かけていくような気がした。
その時が来るのを、恐れながらも緊張しながらも、一方では、ある確証を手に入れる期待感を持って、息を潜めて青木は待った。外にいる誰かが車の中の青木に気づいたら、闇の中に光る二つの目を不審に思うだろうと想像した。
 そのうち青木は、車の中で、ひとりで声を出して泣き始めた。自分は本気で由美に惚れていた、恋していた。しかし、その恋は実らず、もうどうにもならない。恋心は理屈では割り切れない。今の自分を救う言葉は、おそらくこの世には存在しない。どんなに優れた助言も心のこもった激励の言葉も、何の役にも立たないだろう。
 
 青木は、自分と由美との交際の道が閉ざされると、由美と彼氏の関係に興味を持ち始めた。2人が本当に深い関係にあることを知り、その決定的な事実で自分を納得させるために、興信所に調査を頼もうかと思った。夫婦の間の浮気調査などで活用されると聞いて知っていたが、他人事のように考えていた。自分が本気でそのような機関に依頼することを思いついたことは意外に感じられた。
 頭の片隅で、やはり恋は盲目だと冷静に思った。他人の個人的な生活を気づかないうちに調べ上げようとするのは下品な趣味だ。しかし、曖昧な事柄を明白にして、気分を楽にするために、あのカップルのいわゆる肉体関係を確かめたい。
 電話帳で調べて目に付いた興信所に電話すると、中年らしい女性が出た。意中の女性の真の姿を知りたいと願う青木の心中を察し、同情する様子だった。しかし、高額な料金を聞き、自分の身元を尋ねられると、後ろめたさを感じて思いとどまり、電話を切った。
 
 ある日、青木は職場のビルから出て駐車場に歩いていく途中、由美が車に乗って近くを通り過ぎていくのに気付いた。ナンバープレートにも車種にも覚えがあった。由美の方では自分の姿に気付いたかどうか、そんなことが気になった。
 アパートの部屋で静かな夜を一人で迎えると、また由美のことで苦悩する時間の訪れを感じた。
 もしかしたら、由美は自分に少しは気があるのかもしれない。異性に対する好悪の感情ははっきりと割り切れるものではなく、何かの弾みで揺れ動くことがある。そのような変化の中で、世の中の男女関係は、ひとつずつ、少しずつ形をなしていく。由美は、好きになれたかもしれない自分とは縁がないまま、結局は縁のあった彼氏と結ばれていくのかも知れない。

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