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ことばの標本(20)_誰かの願いが叶う頃

誰かの願いが叶うころ あの子が泣いているよ
みんなの願いは 同時には叶わない

(宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」2004)

体調不良と、娘のテス勉に付き合っていたら、1日が終わった。

頭痛は鳴り止まず、結局寝て起きて、時折尋ねられる娘からの質問に答えていく。

自分のことは何もできず、原稿はたまる一方で、頭を文字通り抱えながら「何をやってんのか」とひどくまた落ち込みそうになったが、娘がワークを終えて、満面の笑でこういった。

「なんか、自信出てきた。明日できそうな気がする!ありがとう!」

昼間とは違う笑顔をパンパンに膨らませてそう言うので、ハッとしたよ。

何もかも、私が全てのことを実現させなくてもいいんだってことに気づいて。

私が今日やりたかったこと

成し遂げたかったこと

感じたかったこと

それら全てを、代わりに誰かが体現して

思いっきり実現して、

ものすごい充実した1日を送って、

それをほんのちょっとでも共有できたら、

なーんもできなかった私の1日は

何だか報われるってことに。

私の代わりに、この子が全部やってくれたんだって思えたら、ちょっと得した気にさえなる。

自分を責めなくてもいい。何にもできなかった自分をどうのこうのするより、

「きっと誰かがちゃんとやってくれた」

と思うのは、私はアリだと思った。というか、そう考えると満たされた。


宇多田ヒカルちゃんの「誰かの願いが叶う頃」という歌で歌われているのは、きっと同じことなんだな、とふと。

誰かが嬉しい時、誰かが悲しんでいる。誰かが満たされている時、誰かが飢えている。

私のような楽観主義ではないかもしれないが、なんだか、生きているって、生かされているって、+と−のできごとがあって0で成り立っているってことなんだろうなあと。

凸があれば凹が生まれる。今日苦しい思いをしている一方で、今日最高だった人もいる。満たされているのは、満たされない誰かのおかげかもしれないし、悲しかったのは、うれしかった人のおかげかもしれない。

そんなふうに、めぐりめぐって、喜びや悲しみを分かち合って、結局はゼロになって、地球って浮かんでいるんだろうなあって。

今日は、思ったんです。



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