ソサエティ5.0に生き残るのは、「データではない自分」なのでは。
最近、「ソサエティ5.0」という言葉、というか概念?について、知った。
このサイトによれば、ソサエティ5.0とは、
狩猟社会(Society 1.0)
農耕社会(Society 2.0)
工業社会(Society 3.0)
情報社会(Society 4.0)
とここまできたソサエティに続く、新たな社会を指すもの。つまり
サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)
のことだそうである。
この言い方があっているのかどうかはわからないが、ソサエティ5.0では、私たちは2種類存在することになるんじゃないか、と。
物理的な自分と、データとしての自分。
そして、私という個人も含めたあらゆるデータ、情報は、どっかの大きいコンピューター(サイバー空間)に保存され、
それを物理的に存在している私や自然、会社、国にとって、より最適で、正確で、格差なくサービスを授受し合う社会・・・
つまり、私と、AIの私が、共存する世界。
ただ、ここで強調されるのは、ソサエティ5.0とはあくまでも、「人間中心の社会である」ということ。そして、「課題解決のために作る社会である」ということ。
地域格差や障害、過疎、少子高齢化。必要なサービスが必要なところに届かず、そのクオリティにも格差が生まれる。情報化社会では解決し得なかった、こういった課題を、ソサエティ5.0では確かに、解決しうる可能性がある。
子どもたちが大人になる頃にはかなりの確率でソサエティ5.0化は進んでいるだろう。
でもそうなったとき、もし「人間中心でなかったら」、ソサエティ5.0は悪夢でしかないな、と思った。人間中心である必要がある、のだと思う。
人が嫌がる仕事はAIが対処してくれるわけだ。サービスが届きにくい場所にはドローンや衛星。介護や教育、医療、食。今までのような「できません」「届きません」「受けられません」が、無くなる・・
そんな社会が本当に訪れたとき、人間に残されているのは、どんな道だろう。
もう、気の合わない先生の授業を受ける必要もないかもしれないのだ。愛想のない対応をする窓口の人と顔を合わせることもないし、言い方がきつい医者の言葉に傷つくこともない。
お金のために、危険な仕事につく必要もなくなるだろうし、人間関係でわざわざ苦しむこともない。ストレスで病気になる人も減ったら、医療費もだいぶ減るかも。農業は天候に左右されることなく収穫でき、必要な時に必要なだけ食が回る。
嫌なことはもうしなくていい。しんどいことも、不安も辛いことも極力避けられる。移動しなくても、話さなくても、データが、オンラインが、繋ぎ、運び、届ける。
そうなったとき、人は、何をするんだろう?
人はもっともっと、人と話したい、と思うのだろうか。もっと会いたいと思ったり、もっと子どもを産みたいと思ったり、もっと自然に触れて、思うようにいかない世界をわざわざ楽しんだり、いろんな世界を見たいと思ったりするのだろうか。
本当に、そんな社会がやってきたら・・・
「データではない自分」を持っていることが、とんでもなく重要な気がした。
「データとしての自分」がいる限り、「データではない自分」、つまりこうありたいという願い、こんなことをやってみたいという希望や衝動によって、突き動かされる自分が、もっと必要になるのではないか。
自分が生きている、ということをもっともっと実感したくなるとき、
人は「自分の好きなこと」「自分が愛してやまないこと」「自分が自分らしくいられること」をもっともっと、もっと、追求し始めるのではないか。
その時に、もし、「データとしての自分」しかいなかったら・・・
考える必要もない、誰かの作ったレールに乗るだけで良い、肩書きや学歴があれば良い、やりたいことも特にないから会社に入る、というような、今までの社会の常識を信じたままソサエティ5.0を迎えたら・・・
そこはやっぱり地獄なのではないかなと思った。