スーパーで見つけた豚さんに春節を想う
先日、近所のスーパーに行きましたところ、お肉のコーナーに豚さんの頭がふたつ、並んでおりましたよ。
地元でこれを見る違和感・・・。
目があった定員さんに「こういうのも仕入れるんですね」と声をかけると、「よく中国の人が買って行くよ」と教えてくれました。
さて、明後日2月1日は春節。
我が家にも、中国から帰国した夫がおりまして、かのスーパーで見つけた豚の頭を「買ってもいい?」とやたら聞いてきますが断固拒否。鍋の中に浮かぶ目を閉じた豚さんをどう拝めばよいのかわかりませんので。
それにコロナのこの状況、いやそもそも、中華街もない田舎の春節との関係のなさによって、豚さんをありがたくいただける精神状態にはなりにくいでしょう。
夫も、気持ちだけでも盛り上げようとしているのかもしれず、豚さんはお迎えすることなく、味噌汁と白ごはんでいつも通り過ごすことになりそうです。(あ、餃子は作るかも)
瀋陽にいた頃は、故郷へ戻ってきた含め親族全員があつまり、深夜まで「晩会」(日本でいう「紅白歌合戦」みたいな番組)をみて、餃子を皮から作り、12時すぎたらそれを食べて寝る、というのを繰り返していました。
が、このような中国での春節の過ごし方も、これから様変わりするのかもしれないですね。
「甘いよ日本は。中国なら、一人コロナが出たら市長はクビだよ」と、夫はよく言います。見せしめのような政策が行われていることを自慢げに説明してくる夫の話を聞いていると、
私の方は、市長がクビになることよりも、そういう政策の一つ一つが庶民(=夫)に与えている無意識の行動制限の力を、感じずにはいられません。
現に、私と夫では「コロナ」に対する反応の仕方が違いすぎて。
「出歩くんじゃないよ」「学校はなんで休みにならない」「飲食店まだやってるの」とブツブツいう夫に対し、
「まあまあそこまでしなくても」「ちゃんと感染対策して」「大勢人がいるとこ行かないように」という私。
染み付いた感覚がまるで違い、どっちも正しいこと言ってるような気がして、どっちがいいのかわからなくなります。どちらも必要で、どちらだけでもダメな気が・・・。
いずれにしても、個人がどう身を守るのか、ということだけではなく、どうすれば全体を守れるのか、その行動、考え方、選択をコロナによって鍛えられているような気がします。
今ここでできることで全体に関わっているんですよね。その意味では、「お祭りだめ!」「移動NG!」で終わるのも私はもったいないと想うし、守っていきたいものも当然あるし、
やっぱり暮らしには楽しみや節目を持っていたい、というわけでとりあえず懐かしい春節の写真を貼って、ささやかなお祝いを。良いお年を、お過ごしください!
実家の団地のみんながランタン、飾ってて可愛かったんだよなあ。
親族で餃子作りながらどうでもいい話して。
お友達のいる農村で生きた豚を解体してもらったお正月も忘れられない。衝撃で直視できず、しかし、お肉はしっかり分けていただく。
「綺麗だからいいじゃない」という理由で正月にもクリスマスツリーが飾られるのってまだ健在なのかなあ。いろいろ、また現地で見てみたいです。
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