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大人にこそ読んでもらいたい児童ノンフィクション『命のうた』
今年の春、この本に出会いました。
戦争孤児になった山田清一郎さんの人生をつづった、作家・竹内早希子さんによる児童ノンフィクションです。
あちこちでご紹介してきたのですが、終戦記念日を明日迎えるにあたり、やっぱり、この本が生み出された今を、大事にしたいと思うので改めて。
せいちゃん(山田清一郎さん)は、10歳の時、空襲に巻き込まれた両親を失います。
このくだりだけでは、
戦争が原因で一人ぼっちになってしまった、悲しい子どもたちの人生を知ることに、抵抗感を持つ人も少なくないのではと想像します。
今読んでなんになる?
私も、ちょっと前まではそんな気持ちがありました。
けれども、どうでしょう。
ネットを開いてみれば、「生きる」ことは簡単に諦められることで、「生きている」知らない誰かは、傷つけて当然の相手になっている。
生きている価値がない、なんて人が人に平然と言わせてしまう時代。路上で暮らすことになる背景の「なぜ」に想像を働かせることもなく。
戦争の混乱によって、自分の名前も言えない、どこに住んでいたかも説明できない子どもたちが、町中にあふれました。
竹内さんは、せいちゃんの言葉をかりて、当時の状況、戦後の人々の暮らし、どのように人に見捨てられ、また人に救われてきたのか
詳細に語っていきす。綿密な取材が描き出す戦火の状況に、ページをめくるたび、胸の奥がずきずきと痛みます。
やがて戦争孤児となった子どもたちは、仲間を集め、盗みを働き、その日その日を生きながらえていきます。多くの仲間たちの死にも直面します。周りからは「浮浪児」「野良犬」と罵られ・・・社会から差別・黙殺されながらそれでも「生きる」。
彼らにとって、「生きる」とはなんだったでしょう。
せいちゃんを通して語られる現実は、あまりにも残酷です。悲しみと、憎しみ、苦しみの連続で、動悸がするような気がしました。
けれど、せいちゃんはその現実を生き抜くのです。
自分の周りから捨てられるようにいなくなった命の分も全部、一緒に抱えながら、生きてやると誓うのです。
命がこれほどないがしろにされた時代を経て、私たちは、何かを学んだのだろうか、そんな気持ちにもさせられる。
犠牲となった全ての命が、今、この本を作らせた。私にはそう思えます。
もうひとつ、戦争を知らない世代が、書き手として戦争に向き合うことは、決して生半可な気持ちでできることではありません。
自分が親であれば尚更、戦争孤児という問題に向き合った時に味わう苦しみには、「本を書く」以上のものを感じます。
我が子の成長を見守りながら、10歳で孤児になったせいちゃんの苦しみに寄り添う。
創作の過酷さを想像した時、私にはこの物語を書き終えた、竹内さんへの敬意と感謝の気持ちがあふれました。
どれほどの産みの苦しみがあっただろうか、書き手としての道のりを想像したとき、また私の胸に迫り、こらえきれないものがありました。
童心社HPにあった、竹内さんのコメントです。
「なぜ、なにが、あなたをそこまで動かすんですか?」
これまで何度か、山田さんから同じ質問を受けた。その問いに、今もうまく答えられない。ただ、ずっと根底に「なかったことにしてはいけない」、「2度と繰り返してはならない」という母親としての怒りがあったように思う。それは、我が子をひとり残して世を去らねばならなかった山田さんの母、いや、すべての戦争孤児の母たちの怒りでもある。
今とは違う時代の話、なんかではない。
この人が強かったから、なんかではない。
この作品が手元にあることは、とんでもない幸運だと私には感じられます。
これは、竹内さんが代わって綴ってくれた、決意の書なのかもしれないなとも思う。
こういう過ちを犯してしまえるのが、私たち人間であることを、忘れないように。
と同時に、それほどまでに強大な力を、地獄のために使うのか、望む未来のために使うのかは、
私たち自身に、ただ委ねられているということを。
戦争という過ちが教えてくれるのは、「責任」という名の「希望」でもある。
明日は終戦記念日。今ある命と暮らしに感謝して、誓いと祈りを捧げる日にしたいと思っています。
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