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「待つ」ことは「教える」の一部。子どもは別に「成長したい」と思ってないかもしれない

時計をチラチラみながら、「これいつ終わるんですか?」と聞いてくる。トピックスを提示しても、「この間こんな話聞いたよ」と全然違う話を振ってくる。朝のクラスだったせいか、こりゃ完全に意識が飛んでいるな、と思った。

その作文教室をやり終えたあと、ぐたっとしてしまった。全然、手応えが残っていない。

対面ならまだしも、オンラインで画面の向こうの行動を制限することはできない。こうなると、もう私の技術では難しい。


いつもではないが、時折、こうなるのが気になっていた。その子と、私との積み重ねた時間もあるし、慣れもある。でも、このままこれを続けていたら、子どもにとってもせっかくの週末がもったいない。

というわけで、思い切って親御さんに相談し、やり方を変えてみたい、と提案した。快諾をいただいた上に、「続けていきたい」気持ちを確認することができたのが、今日の最大の収穫。

自分の力がどの辺までのものなのかを確認する意味でも、今日はいいタイミングだったと思う。


私は、教える側としては全くの素人。クラスも遊んでいることが多いし、塾のようなものでもないから、カリキュラムもない。

作文教室と言いながら、私は子どもが笑ってくれればそれでいいし、一緒に書いて遊べたらそれでOK。そんな教室で良ければ、という気持ちでやっているのだが、

ただ、中学生はそろそろ進路のこと、小学生は高学年になって長文や読解のこと。どうしようもなく「たのも〜!」と言ってわざわざうちに来てくれる子供達には、何かしらお土産を持って帰って欲しい。

だから、私の頭の中にある「知っておくと良いもの」を手渡して、実りある時間を、と思って授業していることが、このところ増えていたのだな、と今日は気づかされた。

こちらがどんなに「これは面白い♪」「ためになる♪」と思って準備した内容でも、うまく行かないことがある。

それは、私がてんでダメなわけでも、子どもがダメなわけでもない。きっと相性の問題でも時間帯の問題でもないと思う。

もしかしたら、子どもは、別に「のびたい」と思ってないかもしれないという可能性に気づいた時、ハッとした(笑)。


教える立場にずっといると、「伸ばしてあげたい」という思いが出てくる。でも、この思いが、やや邪魔になることもある。

「伸ばしてあげたい」の背景には、期待に応えたい、というのも少なからず含まれているからだ。せっかくこんな小さな教室にたどり着いてくれたのに、というのもある。

伸ばしてあげたい、とこちらは思うけれど、伸ばしてあげることが、子どもにとっての望みかどうかは、本当のところはわからない。

それよりも、「話したい」かもしれないし「会いたい」かもしれない。「休みたい」かもしれないし「聞きたい」かもしれない。

究極的には、これは動物園の飼育員さんから教えてもらった相当高度な技術だけれど、

”最後は、待つことしかできないんですよね”

この一言に集約されていると思う。

こちらにできることは精一杯するけれど、そのあとは「待つ」。子どもがわかってくれたり、心を開いてくれたり、こちらに興味を持ってくれるのを。

時間がかかることだし、わかりやすい答えが出るわけでもない。それでも「待つ」。これは子育てでもきっと、同じ。


情報や知識、スキルを手渡すことだけが「教える」なのではなくて、もしかしたら何も残らない、ただ時間がすぎていくだけかもしれない、そういった時間が「教える」の一部にあってもいいのではないかと、改めて思った。


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