人生を変えた、何事も起こらなかった日々。二十歳の原点

昨日の「世界ふれあい街歩き」が、イギリス・カンタベリーだったので思わず見入ってしまった。

1997年、初めての海外で1年の留学。この年に、香港はイギリスから中国に返還され、ダイアナ妃がなくなり、後を追うようにマザーテレサもこの世をさった、地球歴史上まあまあ激動だった一年を、私はカンタベリーで過ごした。

大聖堂の周辺が通学路だったなんて、なんて贅沢な学生時代だったんだろう。今なら、わかる。今なら、一呼吸ごと記憶を保存したい。今なら、一歩一歩をもっと踏み締めるのに! 

あの頃は自分に構う余裕しかなく、精神的な成熟度もまったくなく、英語を死に物狂いで頑張った自分は褒めたいが、体はバターたっぷりのクッキーとフィッシュ&チップスで十キロほど巨大化して帰国した。

だから、もう一度いくのだ。カンタベリーへ、必ず! 昨日、そう決意しましました。


カンタベリーは、大聖堂以外には何もない、地方の穏やかな街だったと思うが、私にとっては、人生を変えられた街だ。

私があそこで見て、味わって、出会った全てが、それまで思い描いていた人生を色褪せさせてしまった。

何か、こうものすごい恋愛をした!とかでも、大事件に巻き込まれた!とかのネタは一切ない。日々は平穏無事に、淡々とすぎ、そのなんの起伏もない日常が、世界の色味を変えてしまったのだ。

クラスメイトは年齢も国籍も様々で、特に仲が良かった香港人のウィニーは、会社命令で留学していた当時32歳のお母さんだった。子どもを旦那に預けて留学する、そんな選択肢があるのかと香港の先進性に驚いた。

やっと英語レベルが追いついて同じクラスになった日系ブラジル人のジュディ・ヤマシタは、YamashitaをIyamashitaと綴った。なぜかと聞いてみたら「役所で登録した時に担当者が綴りを間違えたらしい。だから我が家はずっとイヤマシタ」。そんな適当なことがあるのかと世界のゆるさに驚いた。

バイト先のチャイニーズレストランで出会ったレベッカは、生まれはタイで幼少期にイギリスに暮らすスペイン人の富豪の家に養子にやってきたと話した。一人の人生を語るのに、国名が三つも出てくる事実に、頭と感情がつかない。彼女の人生が幸運なのか不運なのか二択で片付けようとした、自分の価値観の狭さに落胆した。

夏休みにはユーレイルパスでヨーロッパを一周し、オランダのユースホステルで出会った韓国系アメリカ人の兄弟と仲良くなってしばらく一緒に旅行した。お兄ちゃんは医者を目指して勉強する秀才で、弟くんは私に服を選んでくれる女子力の高いゲイだった。国やセクシュアリティが何層にも重なる世界を、私はなんて不思議で面白いんだろ!と思った。

誰一人、同じではなく、それぞれが様々なバックグラウンドを背負って、生きていて、出会った。

留学生を世話するサークルのリーダーにポッてなったり、カンタベリー大聖堂の近くの公園でチョコバーを食べながらボーッとしたり、バスに乗ってロンドン行ったり、ウェールズやアイルランドで一人ぼっちを感じたり。

何事も起こらない、平穏無事なイギリスでの日々は、何も起こらないのにとにかく刺激に満ちていた。毎日がドラマだった。

ふと、日本にかえったら、ベルトコンベアの上で誰かと同じような自分がつくられていくのが目に見えた。

そもそもイギリス留学は、英語が好きだった私が、地元で英語教師にでもなろうという真っ当な目的を持って選んだものであった。帰国したら教員免許をとって、卒業して、受かるまで試験を受けて・・・

というつもりだった自分のその先を、あの一年でまるで描けなくなった。

もっと、世界を見たい。

その気持ちに気づいた自分の目が、キランキランに輝いていたのを今でも感じる。

もっと世界中の人と、出会ってみたい。

帰国後、私が選んだのは、途上国への国際教育協力を研究する、大学院進学であった。

両親は、心身ともに変わり果てた私を見て、「留学させるんじゃなかった」と言った。

都会でもなく、平和で静かな地方都市で送った毎日。何もドラマチックなことは起こらなかったけれど、出会う人すべてが奇跡の人みたいだった。あの時、カンタベリーで暮らしていなかったら、今の私はない。

あの日々がなかったら、学生ビザで入国して、お金もない、プレゼントはカップラーメンや缶ジュースだった、ただの貧乏留学生の夫(当時)と、結婚しようなんて思わなかっただろう。

それだけは確実に思う、私の二十歳の原点です。


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