制限があるからこそ、のクリエイティブ
昨日の夜、久しぶりに「どこか遠くへ行きたい」と感じる自分に出会った。
目を閉じてから眠りに落ちてゆくまで、数分の時間があったと記憶している。だから、頭の中で「では、どこへ行こうか」と考えてみる。そして、すぐに「今は、海は越えることができないのだ」と思い出し、少し悲しく不思議な気持ちになり、そして同時に「嬉しく」もなった。
「どこか、遠くへ」。この数年、私を強く突き動かし続けてきたその感情。
恋人や、親しい友人たち、#旅と写真と文章と のコミュニティで一緒の時間を過ごしてくれている人たちは、ことば少なでもうっすら気がついてくれていたであろう。「私が、最近は行動範囲と移動頻度を、意識的に調整していること」。
遠くへ、行こうと思えばいくらでも行けた時代を生きた。そうする判断をしたことは、今でもいくらでも正しかった、よかった、と胸を張る。だが、ちぃと長くやりすぎた。自由の享受のしすぎは、みずからのしあわせを削る。知ったのは、世界を旅し始めてすぐだった気がしている。
洗濯物へのあこがれや、掃除機の愛しさ。パンっとタオルをはたいて、陽の光に当てて、夕刻には取り込む。お気に入りのミルクティー、茶葉から入れて、500グラム単位で買わなければ手に入らない、自然由来の砂糖。日に日に芽を出す観葉植物に、蕾をふくらませ続ける花々。いつも眠る寝床、となりで寝息を立てる同じひと。
そういうもの。そういう、定点観測をしているからこそ、知ることのできる日々のわずかな変化の兆し。木漏れ日の濃さや日暮れの角度の違い、月の動きに、私とあなたの心の風向き。
はぁ、そして。私たちは、「動けない時代」を生きる。けれどそれでも桜は咲いて、開けた微発泡ワインはどんどん気が抜けるし、かじりかけのパンの端っこは、パサリ、パサリと劣化を止めない。
そういうことにきちんと向き合い。「発信を前提としない私」の歯車をもう一度掴みたくて、家を構えて季節を越えた。
今は、毎日が愛しい。どこか、遠くへ、今すぐに行かなくても構わない。地に、足を。花に水を、日々に眠りを、こころゆくまでの美味しい食事を。
航空券を買いあさりすぎなくなった毎日は、それとはまた別の刺激に満ちて。
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そして、そうやって、私はまた「どこか」へ行くのだと思っていた。でも、「行けなく」なった。2月頃から、変化を感じた。旅の仕事が、軒並みすべて。文筆や編集の仕事は、あまり変わらず。けれどペースが変わった。インタビューは延期になって、なにかとオンラインが増える。でもそれは、世界一周中と私としては同じであるから、大きな変化ではない。
けれど、旅人仲間が、続々と帰国する。出国をやめる。飛行機が止まる。国境が閉じる。ビザが変わる。それでも、と留まっていた旅人たちが、帰国できなくなってくる。
そう、世界は。変わり目を。劇的に変わった、とはあまり感じていない。つねに変わってきたのが、私たちが変えてきたこの地球で、その大きな流れの中だから、けれどとは言ってもね。国境が、閉じる。飛行機は、飛ばない。ビザが、降りない。
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けれどそれでも。気持ちの変化と、世の中の変化を経て。それでも私、昨夜「どこか遠くへ行きたい」と願った。旅人の、灯火。知っていた、「これは波だ」と。しゃがんだあとは、高く飛ぶだけ。冬を終えて、春に変わって。そしてまた私たちは、旅に出るのだ。制限があるからこその、クリエイティブ。今は、普遍を学び、心を深く、旅路に放つこと。