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海外で突然主人が失踪

2005年の春でした。私は、2歳と3歳の年子を抱えて忙しいこともあり、頻繁に海外出張をする主人に苛立ちを感じていました。

ある時の主人と私の会話・・・
「また、海外に行くんだよ」と夫。
「もう、帰ってこなくてもいいから」と私。
「今度は、直ぐには帰れないよ」と夫。
「・・・?」声にならない私。
「3〜5年の海外駐在なんだよ、子供がまだ小さいし治安もあまり良くないから単身赴任かな・・・」

私は、2〜3日考えました。”お互いに、子供の世話や仕事で忙しくしていることもあり、いつも歪みあっているし、会話の一つもないな。子供たちにも悪い影響があるな。家族離れず海外で協力し合い生活を送っていけば、もしかして夫婦再生に繋がり、理想の家族になれるかも!”と、思い付いたのでした。
「私も子供たちも一緒に行くよ。だって私たちは家族だもん。」

それから私は、毎日のように海外への引越しの準備や海外駐在する奥様方のセミナー研修などで忙しい日々を過ごしました。主人が先に海外へ行き、半年後に、私は子供たちを連れて現地入りをしました。私と子供たちは、主人と合流し、不安と緊張、希望を胸に抱えての新しい生活のスタートを切りました。

そこから始まってしまった衝撃的な出来事です。

現地に着いてからの私は、朝早くから子供たちを現地の幼稚園(保育園)に送り届け、引越し荷物の整理やら、まだ分からぬ土地での食料品の買い出し、奥様同士の会合などをしていました。主人はというと、日本にいた時よりも忙しく、早朝に出勤し深夜に帰宅をする状態なので、以前よりさらにすれ違いの日々でした。

それから半年が過ぎたある早朝、主人の会社の人から1本の電話が入りました。
「ご主人、まだ居ますか?下で待ってるんですけど・・」現地では、車の運転禁止なので社員は皆、ワンボックスカーなどに乗り合わせての出勤でした。
「少し待ってください。部屋を見たのですがどこにも居ません。もしかして皆さんよりも先に出勤してるのかも知れません」と、私は答えたのですが、そんな仕事は入ってないとのことでした。そこから、主人に何かあったのではないだろうか?と、会社側がざわつき始め、私も不安が募っていきました。

それから間もなくして、主人の会社の人たちが私たちのところに来てくれました。
そして、マンションの管理人に問い合わせて監視カメラを見せていただきました。そこには、主人が14階からエレベーターに乗る姿と1階からエレベーターを降りる姿、レセプションの前を通り過ぎる姿が映っていました。しかし、荷物などは持っておらず、ただ両手をズボンのポケットに入れただけの姿。日本で言うと、ちょっとそこのコンビニに行ってくるような感じで映っていました。

突然の、謎だらけの出来事でした。
あっという間に1日が過ぎ、夕方には子供たちを幼稚園に迎えに行きました。子供たちを見た私は、「あれ、現実はどっち?今まで私は、夢を見ていたんだっけ?今、私の目の前には、いつものようにお腹を空かせいる子供たちがいる・・」
私は、とても混乱していて何も考えられず、頭の中は真っ白で興奮状態になり、夜も眠れませんでした。

次の日、いつものように子供たちを幼稚園に送り帰宅すると、玄関ドアの前には現地の警察官と2人の通訳と会社の人たちが私を待っていました。さあ大変、私の尋問が始まりました。その尋問は、私と警察官との間に2人も通訳が入り2、3日にかけて行いました。もちろん私は、日本語で話すのですが、とてもとても疲れました。
そして、たて続けに今度は会社が雇っているというイギリス人の秘密探偵の人から尋問を受けました。それでなくても私は、今、何が起きているのかも分からず、これが現実なのか夢なのかとの思いでいる最中なのに、待ったなしで、次々と事が進んでいきます。そして、私は尋問で語ることによって、罪悪感や恐怖を覚えました。
主人が失踪してまだ2、3日しか経っていない間の出来事です。

会社の人からの連絡で日本の実家に電話をすることになりました。
もちろん、いち早く両親に連絡するべきなのですが、私は、両親にこの事を伝えた時のことを考えると辛くてたまらず、「どうしよう・・・」との思いでした。

次の日の朝、子供たちのランチやおやつを作り、幼稚園に送りました。帰宅後、実家に電話をしようと思い電話の前に座りました。それが、なかなか受話器が取れません。深呼吸を何回しても取れません。心の中では、「早く、両親に知らせなければ。先ずは自分の両親に電話を・・・」それでも、受話器が取れません。朝7:30分頃から電話の前に座り、何度も受話器に手を伸ばし、もう夜の11時頃です。「あぁ、、今日が終わっちゃう・・」やっとの思いで、ナンバーを押しました。私は「びっくりしないで聞いてね、びっくりしないで聞いてね・・・」と、きっと5、6回言いました。母は「・・・、何言ってるの?皆んな元気にしている?」こんな感じでした。そして私は「実はね・・・」と、説明したのです。私は、少し声が震えていたかも知れません。もちろん受話器の向こうの母は「・・・」私もそれ以上言葉が出なくて、そのことを伝えてすぐに電話を切ってしまいました。

その夜も、昨日までよりも頭の中が興奮状態で一睡もできませんでした。私は、この段階では、気が狂う程に寂しいとか、悲しいとかという感情すら出てきませんでした。まだ私は、事実すら受け止める事ができていなかったのだと思います。そして私は、帰国をするまでの間の2週間、殆ど何も食べず、一睡も寝れず過ごしたのでした。少しでも寝ようと思うのですが、激しく興奮している私の頭の中がどうしようもないのです。この2週間の間は、1日も欠かさず早朝から、夜遅くまで、主人の会社の方々と一緒に行動しました。1人になる時間は夜中から朝までです。子供たちも寝静まると、常に「もしかして、事件に巻き込まれてしまったのだろうか?、もしかして、お財布を取られて殺されてしまったのだろうか?川に投げ捨てられた?山に埋められた?、誘拐事件?」こんなことで頭が一杯になり、さらに眠ることなどできませんでした。元々、太ってはいない私ですが、さらに、げっそりとやつれてしまいました。

頭・身体・心が、バラバラに機能しているようでした。目の前の事をこなすだけで精一杯でした。

それでもまだ、私は「これは現実なの?まだ、夢を見ているのかな?」こんな風にも感じていました。

仕事で忙しくしていた母ですが、2日後には主人の会社が用意してくれた飛行機チケットで私たちのところまで飛んで来てくれました。母が来てくれた後も私は、現地の弁護士事務所に行ったり、秘密探偵と話をしたりと忙しくしてました。現地の新聞7社に、「尋人」として賞金を賭けて広告を出したりもしました。しかし、何も情報は入ってきませんでした。私は居ても立っても居られなくて、その合間をみては母と一緒に色々な場所を探しに出かけました。もちろん、どこを探していいかなんて分かりません。いくら探したって見つかりません。でも、ただじっと部屋に居ることがとても辛かったんです。4、5日後、忙しい母は、私たちのことを心配しながらも日本へ帰国しました。

その後私は、主人の会社から「私たちは、奥様とお子様をとても心配しています。一旦、日本の両親の元へ帰国して下さい。このマンションは、いつでも戻れるようにずっとこのままにしておきます」と、言われました。こんなことを言われても、私は日本に帰れません。「もし、主人がこのマンションに帰ってきたら・・」「もしかして、探せばどこかに居るかも知れない」などと後ろ髪を引かれます。それに、主人を残したまま日本になんて帰れない。
それでも会社側は、シナリオが有るかのように淡々と、それも優しくスムーズに事を運びます。
何日か経った夜、会社の方たちがまた帰国の説得をしました。私は、こんなに涙って出るのかなというくらいに涙が止まりませんでした。胸が引き裂かれるような思いで帰国をすることにしました。

主人が失踪してからのこの2週間は、私にとって後にも先にも人生最大に沢山のことが凝縮された、長い長い2週間でした。

帰国後3ヶ月くらい経って、現地の警察や日本大使館などに行く事となりました。
私は子供を1人残し、父と一緒に、そして主人の実家は、両親が高齢ということもあり、お姉さん達が一緒に行く事になりました。もちろん、警察や大使館、弁護士事務所などにも行きましたが、会社側が私たち家族に実際の現実を見せた事と、私たちの住んでいたマンションがそのままになっていたので、引越しの手配をしたかったようです。3、4日で私と子供を残して家族は日本に帰国しました。やはり私の気持ちは、日本に帰れなくなってしまったのです。
会社側は「ご主人が見つかったら、このマンションに戻って来ていいんですよ。でも、一旦、日本に帰国しましょう」と、言って来ます。私は、マンションを空っぽにして引き払うということは、「主人は、もう絶対に見つからない、もう、この世にはいない」と、言われているようにも思いました。しかし、前回現地で、「日本に帰国しましょう」と、言われた時よりも力が入らず、素直に受け入れ帰国する事にしました。そして、私たちの家族が日本に帰った後、子供を傍に、1人で荷造りを始めました。
今度は、本当に日本への帰国です。

その後1ヶ月半後くらいでしょうか、主人の会社側は「これ以上、ご主人を社員としておくことができないので自主退社をして下さい」とのことでした。本人がいないので、私が本人の代わりに東京の本社に出向き、代理自主退社の手続きをしてきました。手続きの最後に、「これからもし、ご主人が見つかった際や、何かのお手伝いが必要な時のために、お世話をさせて頂くこととなった◯◯です」と、現地でのこの事件の流れも全く知らない、そして初めて聞く部署の方が、私の担当ですと名乗ってきました。そして更に、現地の事件に関わった社員の方々は皆、また違う場所へと海外赴任になって散らばって行きました。
私は、ああぁ、、これでこの事件は、あやふやになっていってしまうんだ。主人も、あやふやに宙に浮いたまま。でも、主人がこの会社にいたから社員の方々に助けてもらえ自分では、到底できないこともスムーズに事を進めることができたから、とても感謝していました。が、しかし、もう1人の自分が「会社に勤めるサラリーマンって、安心安全だけど、やはり、何千人もの社員がいるということは、その中の、ただひとりという捉え方もできるのだ」と、冷たい水をかけられたかのように、ハッと現実を見るきっかけになりました。

私が、会社側に「こんなに凄い事件なので、TVのニュースに取り上げてもらうことはできないのでしょうか?」と、意見を述べると「そんな事をしたら、マスコミが押し寄せ、奥様やお子様たちがここに、いや日本に居られなくなりますよ。絶対に、駄目です」このように言われました。私は正直、「もしかして、これって脅されている?会社側が不利だから?」などとも思いました。

私は、それはもう悔しくて、悲しくてたまりませんでした。
とても信頼していた会社に、酷く裏切られた気持ちになりました。

何ヶ月か後に、日本に荷物が届きました。
今、思い出すと「もう、あのマンションは私たちの住む場所ではない」そう思い始め、少しずつ現実を受け入れていけたのだと思います。
ここから、リアルに日本での生活が始まります。

帰国後、私たちは私の実家に置かせてもらいました。一瞬、「異国の地で独り張り詰めて不安に怯えているよりも、両親のいる日本に戻ってこれて良かったのかも」と、少しホッと安堵の気持ちが起こりました。

この安堵の気持ちも束の間でした。現地で起きた出来事をそのままにして日本に帰国してしまったので、そこからは日本と海外とのやり取りへと切り替わっていきました。
海を跨いでのやり取りは、それはもう大変でした。現地の弁護士とのやり取りは、現地の言語を英語に訳した後に日本語に訳して私のところに届けられます。私が受け取り、書き足しをした書類を今度は、日本語から英語、そして現地の言語にして送ります。もちろん全て会社側に助けていただきました。その間に私は、東京の外務省へ出向いたり、地元の市役所や家庭裁判所へ行ったり、さらに子供たちとの生活と、とても目まぐるしい日々を送りました。

昼間は、あちこちに出向いて手続きをこなし、夜になると子供たちを寝かしつけた後は、相変わらず主人のことを考えてしまいます。時間が経ったこの頃になると、現実を受け入れてきているせいか、考えれば考える程に発狂しそうでした。毎回、考えることは「もしかして・・」なのです。全て、もしかして・・という、答えのない空想なのです。

両親の元へ帰ってきて少しはホッと・・・と思っていたのは、ただ一瞬だけで、現実は両親は仕事で忙しくしているので結局、私は母子家庭状態でした。母子家庭ならまだ救われます。私は主人と離婚したわけでもなく、主人が亡くなったわけでもないので、母子家庭にもなれなかったのです。何回も何回も、市役所へ行き交渉しましたが母子家庭にはなれませんでした。主人と購入した住宅の返済も残っています。主人は亡くなったわけではないので、私が返済する事になりました。主人の収入に合わせた住宅ローンです。銀行に問い合わせをしてもどうにもなりませんでした。私には、とても大変な返済でした。

週末にもなると、ショッピングセンターには家族連れがたくさんいます。
毎回、その家族たちの何気ない光景を見る度に「いいな、皆んな旦那さんと子供と買い物してる」と、羨ましくなりました。そして、「私は、お互いが決めて離婚したわけでもないのにな・・。いっそ亡くなってくれてた方が気持ち的に割り切れるのに・・」などとも思いました。ある時、子供たちは、ショッピングセンターでパパと手を繋いでいる子の姿を立ち止まって、じーっと見ていました。私は、その子供たちの後ろ姿にとても胸が締め付けられて涙が出そうでした。

子供たちも、いっぱい我慢しているんだ。と、改めて思いました。

帰国後、パパっ子だった上の子が頻繁に私にパパについて質問してきました。
「パパはいつ日本に来るの?」
「パパのところに、いつ帰るの?」
私は、どうしてもパパについての話ができませんでした。子供は子供なりに頭を捻ったのでしょう。今度は私に、絶対答えられる質問をしてきました。
「パパって何型だったっけ?」
「パパの生まれたとこはどこ?」
私は、より一層言葉にならず背を向け涙が出てきてしまいました。
またある時は、私が車を運転中に子供たちと会話をしていました。
下の子が「パパは・・・」と、話を始めた時です。上の子が「だめ、だめだよ、ママの前でパパの話をしたらだめ!」と。上の子は、男の子だった為か、特に私に気を遣っていました。自分の子供なのですが「なんて可哀相な子なんだろう、代わってあげたくても代われない」こんなことも思いました。
しかし、それから子供たちは「えっ、どうしたの?」と、思うくらいにピタっとパパに関する事は何一つ口から発しなくなりました。

日常生活はというと、私は、実家で生活をさせてもらってるという、自分の実家なのですが、私の幼少期からの家族との関係性が上手くいってないので非常に肩身の狭い思いの生活でした。そして、家族の1人の失踪によって、私の家族関係の歪みがさらに浮き彫りになっていったのでした。特に私の父は、私を煙たがっていて、「嫁に出たのに、なんで実家にいるんだ」などと言っています。こんなこともあり、お互いに暗黙で喧嘩状態でした。いつもなら我慢するのですが、ある時には、父に酷い態度を取られて、私もイライラしてました。ストレスや疲れも溜まっていたこともあり、玄関先で倒れてしまいました。人の声は遠くで聞こえるのですが動くことができませんでした。それなのに、私の家族は、「どうせ、演技をしているんだ」「何でも、してもらえると思ってるんだ」と、鼻で笑ってるように話しています。
それまで私は、「どんな親でも、娘が大変な時には、まさか助けてくれるんだな。やっぱり、私の親なんだな」こんな事まで心で思い、嬉しく思っていたのでした。
私は、とてもショックでたまりませんでした。
しかし、まだ小さな子供たちを抱えて、それも心の傷も癒えぬまま、母子家庭にもなれない私は生活ができません。そこから今度は、主人の失踪と私の実家の問題にまで心の傷が広がり始めました。今まで、ずっと心底に眠らせておいた私の実家の家族関係の問題も堰を切ったかのように膿として出てきたようでした。

毎日の生活が、日々辛くなって行くのです。
しかし、目の前の子供たちは、日々成長していきます。

2年、3年と月日は経っていきますが、私の人生は、あの事件から全てが止まったままでした。全然前に進めません。自分の気持ちを切り替え進むことができないでいました。それでも私は「子供たちもいる、立ち止まってはだめ、前に進まなくては」と、考えていました。そんな時、若い時に海外に住みたいなと思っていたことを思い出しました。しかし現実は、小さな子供が2人もいるし、言葉もできず、理由もなく海外なんて行けるわけがありません。それでも、日々その思いは膨らんでいきました。そこで私は「この子供たちとこれから生きて行くために、自分の気持ちをリセットしスタートラインに立つために、思い切って海外へ行こう。子供たちと海外で新しい私たちの家族を作ろう」との思いで、オーストラリアへ飛びたったのでした。

私は、この記事を書いている今でも、1日も欠かすことなく主人を思い出しています。
しかし、時間の経過とともに、それは、ゆっくりと形を変えて思い出されます。
今では、穏やかで、にこやかに思い出される主人と、魂を交信しながら沢山の会話を楽しんでいます。


もし、あなたが今、自分ではどうにもならないような出来事で悩み、苦しんでいるのなら是非、私にご連絡を下さい。

あなたの一助となるよう、まずは、お話をお伺いいたします。


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