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【エッセイ】遺す

表現すること。その入り口は“残すこと”だった。

 私はとても忘れっぽい。昔から覚える事が苦手で、勉強に於いても「暗記すれば点を取れます」と言われた場所で得点を取れたことは少ない。しかし負けず嫌いの私は「空欄」という答えは認められず、とりあえず何かで埋める努力はしていた。1番ひどかったのは家庭科のテストにて、「小口切り」が正統の解答欄に何を血迷ったのか「魔神斬り」と書いていた。痛恨の一撃である。
 生活に於いても、記憶力は乏しい。中学生になった時には小学生の記憶は欠落しているし、高校生になった時には中学生の思い出は淡く、大学生になった今でも、高校生の思い出は遠い。残念で失礼な頭なのだ。
 そんな貧弱ストレージポンコツ頭の私はあるものと出会った。

「映像」である。

 父が映像関係の仕事をしていたため、12歳の三代少年が映像に興味を持つことは必然だった。父がつくる映像は町内のお祭りの記録映像だったり、幼稚園のイベントの様子を映像に収め円盤化し、保護者の方達にお配りするというような内容だった。
 「これだ」と思った。
 中学に上がって、iPhone 6というハイテク機械を手に入れた私は、写真と動画で16GBのストレージをいっぱいにした。撮ることが楽しくて仕方がなかった。撮るものは遊んだ友達、自転車で行った隣町のイトーヨーカドー、田園に反射する夕景など、他愛もない記憶を切り取ったものばかりである。
 しかし、そんな愛すべき記憶も、明日になれば忘れてしまっている。
 けどいつだって映像は、私の代わりに覚えていてくれるのだ。
 映像は、私だけのもう一つの海馬になっていた。

 画面を覗く私の背中に父は、新たな道を開いてくれた。「映像を編集すること」である。
 「映像編集」はSNSの発達により、誰にでもできるとても身近なものになっているが、当時13歳の私にはものすごい衝撃だった。
 「映像を…切ったり貼ったり⁉︎」
 紙かよ。いえ、神かと思った。
 映像を編集をした先にあるのは新たな映像、新たな時空間、そして新たな記憶。言わば記憶の改竄である。より分かりやすく、より面白くした記憶たちは、元々あったポンコツ記憶を遥かに超える思い出に変わっていった。
 前述では、「映像は自分の代わりに覚えてくれるもの」と映像をとても個人的に内側に扱っていたが、いつの日からかこの思い出たちを外側に向けようと考え始めていた。

 外側に向けたからと言って、何か作品を作っている訳ではなかった。
 今まで「残す」という目的で記録していた映像をより面白くなるように編集し、友人や家族に見せるという風なものであった。その映像を見て、ただみんなが笑ってくれたのが好きだった。
 その中で特に、大平くんがよく感想を言ってくれた。
「この前の動画面白かった」「あそこのあれ、また見たい」「またできたら教えて」
 大平くんは純粋に、私のつくった映像を楽しんでくれていた。
 私だけのために残していったものはいつの間にか、他人にも“残る”ものになっていた。

 映像の虜になった私は、映像学科が置かれている芸術系の高校に進んだ。
 映像を「芸術」として捉えたことのなかった私にとってそこは、刺激だらけの居場所だった。芸術を志す生徒たちには、幾多の環境と感情に揉まれながらも、何かを精一杯伝えようとする意識が根底にあった。絵画、舞踊、音楽など、たくさんの“表現方法”が存在し、その中にはもちろん映像もあった。
 最初は戸惑った。別に伝えたい気持ちがあるわけでもなく、訴えたい問題があるわけじゃない。そもそも誰かに自分の気持ちが伝わるわけがないし、伝えたって何も面白くないだろうと鬱屈としていた。
 そんな私を救ったのは、大平くんの記憶だった。彼はいつだって、私のつくる映像を待っていた。そんな彼と付き合いながら、いつだって私は映像をつくっていた。

ただ、それで良いのかもしれない。

 何か腑に落ちた私は、初めて「表現」という考えで映像を制作し、その作品を観た大平くんは「面白かった」と言ってくれた。
 大平くんだけではなかった。高校の友人、家族、先生など、私の「表現」を面白がってくれる人は確かにいた。
 13歳の私が“残そう”としたものたちが、数多の刺激を栄養にし、ツルのように脈々と世界を広げて伝わり、人の感情に“残した”のだ。
 今までの時間が全て肯定されたような気がして、私は表現の道に進もうと決めた。

 もう一つ、私が表現の道に進もうと決定的に決めるきっかけになった出来事がある。
 私は父が他界したその瞬間、父の声を聴いていた。
 父は、映像の仕事もやりながらシンガーソングライターという表現者の一面を持っていた。自分の曲と旅をし、各地のライブハウスで自らの歌を届けていた。私もその旅について行き、父の歌と共に日本のいろんなところを見た。当時の幼く内向的な私にとっては、色んなところに勝手に連れ回され、興味の無い音楽を永遠に聴かされ、ほとんどが機嫌の悪い時間だった。でも私の歳でスティービーワンダーやボブディラン、日本では坂本九などの古き良き音楽に精通しているのは、大きな財産であると思う。

 人間としてもとてもパワフルで、いつの間にか人が集まっているような大きい存在だった。分かりやすく言うと、父は明石家さんまさんにそっくりだった(父はさんまさんが嫌いだったらしい)。
 父も今の私と同じ、作品を仲間と残し、確実に、人の心にも残るような表現活動をしていた。

 私が13歳の時、父が入院した。パワフルな父に、真っ白な部屋は似合わなかった。
 父がやつれていく様子は、見るに堪えなかった。しかし、部屋には絶えず面会にやってくる人がいた。疲れそうにしながらも父は、来てくれた方達に喋って喋って、喋りまくっていた。最初に暗く心配そうな顔だった方達は、部屋を出る頃には笑顔になっていた。
 しかしなぜか私は、そんな父親が怖くてうまく話せなかった。機械のバッテリーのように父のエネルギーが「%」で減っていくのが目に見えていたからだ。
 当時14歳の私には到底許容はできなかった。私は心の中で「話すな」とさえ思っていた。「話さなくていいから、もっと生きてくれ」と思った。今思うと、何でそんなことを思ってしまったのだろうと思う。何でもっと、私は父と話さなかったのだろうと思う。
 意識がなくなった頃、父のおしゃべりを埋めるように、父のつくったCDが毎日流れ始めた。私たち家族の言葉に返事ができなくなった父は、歌で返事をしているようだった。歌のお陰で、父を囲む人たちはどうにか会話を続けられた気がする。

 そして、私が中学2年生になった頃の夏休み、父は他界した。
 父の手は、乾燥したばかりの紙粘土みたいだった。そこに「生」は一切存在せず、父の肉体は確実に死んでいた。
 悲哀の空気に満ちた病室には2つの音があった。1つは私たち家族が咽び泣く音。
 もう1つは、父の歌である。

 私は父が他界したその瞬間、父の声を聴いていたのだ。

 とても不思議な感覚だった。父の命は、目の前からいなくなっているはずなのに、父の声はその場に存在していた。
 その瞬間、父の作品は、あの世とこの世を繋げていたのだ。

 時に表現というのは時空を超え、他人の感情も超え、次元をも超える力を持っている。中高生時の作品を見れば、大平くんとの記憶に再会することができるし、父の歌を聴けば、父はすぐそばで寄り添ってくれる。そんな素晴らしい力を持っている「表現」というものに、私は惚れ込んでしまったのだ。
 私は表現から逃れることはできないだろうし、逃しもできない。
 そして父のように、死してなおこの世に“遺して”いけるような人間に、私はなりたい。

 来週は「トゲ」というエッセイをお送りします。ある日の痛々しい私をご覧ください。

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