子どもと大人の安心を基礎とした信頼関係を創る  ー 教育の質的転換を求めて(3)ー

桜写真

子どもと大人の安心をベースにした信頼関係を創る。

 これが、今日の「先生」という社会的存在を創り出していくときに、もっとも忘れ去られている内容である。


 子どもが幼稚園、保育所、幼保連携型認定こども園(以下、園)に入ったとき、初めて「先生」という「人種」に出会う。
 この「初めての先生」の出会いが、ある意味、その後の人生で出会う「先生」との対応に影響してくる。
 「良い先生」に出会えば、その後の先生との関係は最初から好調で、様々なものを吸収していく可能性が膨らむ。しかし、最初の出会いが「悪い先生」であれば、その後にいくら「良い先生」に出会っても、ある程度の意識や感情が切り替わるまでは様々な損失を被ることになる。
 最初の先生との出会いは非常に大切である、と言える。


 では、子どもにとっての「良い先生」とはどのようなものであろうか。


 それは先生としての資質・能力に関係してくる。


 先生の資質・能力にはどのようなものがあるのであろうか。
 この資質・能力はどの職業にも存在する。医者には医者の、農業従事者には農業従事者の、建築家ならば建築家の資質・能力がある。
 その資質・能力は「専門性」と言える。つまり、「さすがに○○ですね。」と他者から言われる内容である。
 「さすがに先生ですね。」といわれるにためには、何が身についていないといけないのであろうか。難しい問題である。


 私はその第1にあげたいのが、「瞬時に」子どもたちと「信頼関係」を創る資質・能力だと考えている。つまり、この項の表題なのである。


 これは、人間関係の基礎となる。
 基礎がしっかりとしていれば、その上に建つ建築物は巨大なものとなる。しかし、基礎が粗末であれば、その上に立つ建築物も粗末になる。
 「信頼関係」を創るためには、子どもに「安心」を感じさせないと駄目である。
 では、それをどのように感じさせるのか。これまた非常に難しい。
 難しいからであろうか、私はこの関係をすぐに創ることができる「先生」にあまり出会ったことがない。もちろん、それを可能にする先生は存在する。そして、その先生の元では子どもたちは安定してしっかりと育つ。
 

 これを読んでいるあなたは今どうであろうか。すぐに「子どもたちと信頼関係」を、築けるだろうか。


 「信頼関係」が築けた場合、以下のような状況が生じる。
・思いっきり自分を表現することができるので、一時的にはクラスが騒がしくなっても、だんだんと落ち着いてくる。
・泣く子がその内誰もいなくなる(怪我など以外で)。
・先生のことを知らない子が泣いていても、関わることですぐに笑顔になる。
・子どもたちは先生と素直に関わるので、いろいろなことに興味を持つ
・先生としっかりとあそびたがる。先生と○○したがる。戸外で遊ぶことをためらわない。
・先生のまねをしたがる。


 などなど、「良いこと」がどんどん生じてくる。そして、子どもたちはどんどん落ち着いてくるので、無駄にエネルギーを使う保育・教育をしなくて良くなる。


 つまり、この関係が築ければ充実した保育を営むことができるが、逆に、この関係を築くことができなければ、充実した保育は望めないということである。
 みなさんは、この関係を築くことを、求めるか、求めないか、どちらを選択しますか。
 答えは当然「関係を築く」ということになるであろう。


 では、どのような資質・能力を身につければ、どの子とも安定した関係を築くことができるのであろうか。


 考えるキーワードは、「安心を基礎に」という言葉である。
 つまり、どの子にも安心を感じさせることが求められるのである。と記述しても、どうしてよいかは、なかなか見えてこない。


 では、具体的に考えてみよう。
 私たちが初めて出会う人でも、話しやすい人と話しにくい人がる。これは、どのような違いから生じてくるのであろうか。
 自分が今まで生きてきた中で、いろいろな経験をしてきていると思うが。それらを思い出してみよう。何か見えてくるかもしれない。


 近年、「コミュニケーション能力を身につける」と、いろいろな分野で言われている。その場合、「安心をベースに」相手に「心を開かせる」という状況を創り出すことは、このことの第一歩である。


 私たちは一般的に、言葉によって相手にいろいろなことを伝えている。しかし、そこには、言葉の意味だけではなく、言葉を発した人の感情なども同時に言葉に乗せて、相手に伝えている。

 例えば、文字で書けば「ばか」となる人を侮蔑する言葉でも、その言葉が持つ意味の通り言われて非常に怒りが出る場合もあるし、うれしく感じる場合もある。
 これは、同じ言葉を使ったとしても、それを発音したときの言った人の感情が相手に伝わった結果である。


 人を侮蔑するために使えば、相手は怒るし、愛情を持って言えば相手はうれしくなる。このように私たちは、言葉でもってコミュニケーションを取る場合、単に言葉の持つ意味だけではなく、同時に自分の感情等も言葉に乗せて伝えているのである。
 この言葉(=言語)の意味以外に伝わる部分を「ノンバーバル(nonverbal)=(非言語)」と言う。この非言語で相手に伝わるものは、言語で伝わるものよりも割合的には多い。


 では、「非言語」というものにはどのようなものがあるだろうか。
M.L.パターソン(Miles L.Patterson 著 工藤力訳『非言語コミュニケーションの基礎理論』誠信書房 1995年)の指摘を参考に詳しく考えてみよう。


 「広義には、非言語行動とは、私たちが身体を使って行なう多数の行動を指す。ここには、言語行動のある種の特徴さえも含まれよう。話の内容やその意味と、ことばの音声上の特徴、例えば、声の大きさ、テンポ、声の高低、そして声の抑揚などを区別することは重要であり、一般にこうした区別は行われている。」(3頁)
 さらに、具体的に次のように指摘している。
 「1.対人距離、2.凝視の方向、3.身体接触、4.身体の傾き、5.身体の向き、6.顔の表情、7.姿勢と姿勢の調整、8.ジェスチャー、9.手の動き、10.足および脚の開き、11.身づくろいのしぐさ、12.自己や対象へのマニピュレーション(身体のある部分を掻く、衣服を直す、指輪や鍵やそのほかのものをいじくるなど、タッチの一種)、13.瞳孔の拡張と収縮、14.休止、15.中断、16.話の持続時間

 研究者の中には、行動上これと関連あるような属性、例えば、身体的な外見や体臭、あるいは衣服、メガネ、宝石類の人口品の手がかりもここに含める人がいる。」(4頁)


 私たちは言葉の意味だけではなく、このようなものを総合して相手とコミュニケーションを取っている。そして、子どもたちに「安心を基礎にした信頼関係」を築くことが求められる。


 つまり、「何を話すか」だけではなく、「どのようなニュアンスで」子どもたちに話しかけ、「どのようなしぐさで」子どもたちに接するかなど、自分の丸ごとでもって、全ての子どもたちに「安心」を感じてもらい、そして心を開いてもらい、子どもたちと関わっていくことが求められるのである。
 さらに、大切なことは、できるだけ短時間に子どもたちとの関係を築いていくことである。
 なぜなら、短時間で関係が築ければ、その分充実した保育・教育の時間が長くなるからである。


 でも、知識だけ持っていてもそれはスタートでしかない。その知識を「容」にできなければ、知識を持っているという自己満足にしか過ぎないのである。知識を「容」にすることができることが保育者・教育者としての専門性である。


 そのためには具体的に考えてほしい。
 例えば、子どもを見つめる眼差しは、どのような眼差しが子どもの安心を生じさせるのか。どのような表情が子どもを安心させるのか。もっと記述すれば、「安心する」だけではなく、この大人と一緒にいたい、一緒にあそびたいと思ってくれる「話し方」はどのようなものであるのか。手や足・脚はどのように動かせば良いのか。
 考え、身に付けることはたくさんある。先生の資質・能力の奥は深い。
 しかし、だからやりがいがあるのである。


 想像してみよう。親が関わってもなかなか泣きやまなかったのに、自分が関わったらすぐに泣きやみ、笑顔になった。誰も偏食をなくせなかったのに、自分が関わったらすぐに偏食がなくなった。外に出てあそぶことが嫌いだったのに、自分が関わったらすぐに楽しそうに外であそびだした。等。


 これらは、絵空事ではない。
 「子どもと大人の安心を基礎にした信頼関係を創る」ことができれば、このことは容易に現実となるのである。


 しかし、これらは日々のたゆまないトレーニングによってこそ身についていくのである。記録を出すアスリートが日々たゆまないトレーニングを行っているのと同じなのである。異なるのは、たゆまないトレーニングを行っていても、スポーツの世界では金メダルを取れるのは一人であるが、先生の世界では、金メダルを取るのは「全員」であるということである。
 この金メダルの報償は、子どもたちの心からの笑顔である。子どもたちの豊かな人間としての育ちである。この笑顔や豊かな育ちは努力した先生全てに与えられる。
 もちろん、この項の内容は出発点でしかないが、後述の内容が充実していくためには、この項の内容を身につけることが必要なのである。
 そして、子どもたちの素敵な笑顔を得るためには、この後の項の内容も、しっかりと身につけていくことが必要である。

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