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『アメリカの友人』は悪魔が天使に恋して誘惑する物語である

 ヴィム・ヴェンダース監督によって映画化された、パトリシア・ハイスミスの小説『アメリカの友人』は実に奇妙な物語だ。
 屈強な用心棒に守られたマフィアのボスを暗殺するのに、殺しどころか一切の暴力と無縁な「善良で堅実な人間で、堅実な職に就き、妻とふたりの子どもを」養っている「聖人みたいに正直な」男、ジョナサン・トレヴァニーを雇う。

 こんなにバカげた企みがあるだろうか?

 ジョナサンを殺し屋に推薦したトム・リプリーも「この思いつきはただの悪ふざけにすぎない」「悪意のある悪ふざけだ」という。

『アメリカの友人』の原題は「リプリーのゲーム」。リプリーがゲームの「コマ」にジョナサンをに選んだ理由は、一度だけ会った時、彼に「不愉快なことを言われた」からだという。何を言われたのか。

「お噂はかねがね」

その、たった一言の社交辞令だけで、リプリーは、ジョナサンに自分がしてきた完全犯罪の数々を知られている気がした。おそらくジョナサンの誠実極まりない眼差しに心の奥底まで見抜かれた思いがしたからに違いない。

そしてリプリーは、「悪いことなどしそうもない顔をした、真正直なジョナサン・トレヴァニー」に人殺しをさせようとする。

それにしてもなぜ、そんなゲームを? リプリーの心理は、小説を読み終わった後でも、依然と不可解だ。

その謎を解くには、別の小説に答えがある。ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』(1903年)である。

アメリカ生まれでイギリスで活躍した作家ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916年)に、パトリシア・ハイスミスが大きな影響を受けたことはよく知られている。トム・リプリーを主人公にした一作目『太陽がいっぱい』には、リプリーがヘンリー・ジェイムズの『使者たち』(別邦題『大使たち』)を読みたがるシーンがある。なぜなら『使者たち』は『太陽がいっぱい』のヒントになったからだ。

『使者たち』の主人公は、平凡な中年のアメリカ人。大富豪から、パリで遊び呆けている跡取り息子をアメリカに連れ帰ってほしいと依頼される。ところがパリに着いてみるとバカ息子は立派な紳士に成長していた。ヨーロッパの洗練された文化がそうさせたのだ。主人公は薄っぺらなアメリカ文化しか知らない自分を恥じ、パリに魅了され、フランス女性に恋い焦がれ……。

これを基にハイスミスは『太陽がいっぱい』を書いた。主人公を、貧しく育ち、生きるために手を汚してきた青年リプリーに置き換え、舞台をイタリアに移し、金持ち息子をわがままなバカ息子ディッキーに変えた(映画版ではフィリップ)。

リプリーはディッキーと友人になるが、ディッキーの優雅な生活を見て、彼を殺して、彼になりすまし、その財産を奪い取ろうとする。

ハイスミスはリプリーというキャラクターを創造するにあたって、ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』のヒロイン、ケイトを参考にしたと思われる。

『鳩の翼』も貧しい育ちの主人公と金持ちの子との歪んだ友情の物語だ。

 ケイトは美しく聡明だが、貧しい育ちゆえに、人を騙し、利用して生きてきた。そう、まったくトム・リプリーの女版だ。ケイトは大富豪の令嬢ミリーと出会う。ミリーが哀れにも不治の病で余命いくばくもないと知ったケイトはマートンという自分の恋人をけしかけてミリーを口説かせる。ミリーの心を奪って二人で彼女の遺産を横取りしようという計画だ。

 ただ、ケイトがミリーを騙そうとした動機は金目当てだけでない。ミリーは容貌こそ平凡なものの、豊かな家庭で両親に愛されて何不自由なく育ったので、誰にでも優しく、人を疑うことを知らない純粋無垢で天使のような女性だった。人間の暗黒面ばかり見てきたケイトはミリーの純粋さを踏みにじりたかったのだ。

 この善良で不治の病を抱えたミリーを中年男性にしたのが、『アメリカの友人』のジョナサンなのだろう。

 ただ、誤解してほしくないのは、ケイトもリプリーも、ミリーやジョナサンをただ憎んで滅ぼしたいと思っているだけではない、ということ。

 二人は、ミリーやジョナサンの、自分にない純粋さに嫉妬し、憧れ、魅かれているのだ。

「トレヴァニーはわれわれの仲間だろうか? しかし、トムの言うわれわれとは、トム・リプリーひとりにすぎない」

 リプリーは、ジョナサンが自分の仲間になればいいと願う。似たような願望は『太陽がいっぱい』や『見知らぬ乗客』などにも共通する。レズビアンだったパトリシア・ハイスミスの願望を投影していると考えられている。彼女はかたつむりの飼育が趣味で『かたつむり観察者』という短編も書いている。そこでは雌雄同体であるかたつむりが交尾の際に互いを恋矢という刃物で刺しあう習性が描かれている。ハイスミスの作品における殺人はセックスの代替行為だ。

 映画『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロン扮するリプリーは金持ち青年のフィリップ(ディッキー)の胸にナイフを突き立てる。淀川長治先生は「あのナイフはペニスの象徴です」と論じた。

『太陽がいっぱい』の原作では、リプリーはディッキー(フィリップ)の婚約者マージからゲイだと見抜かれる。そして、ディッキーの服を着て、ディッキーになりきって、彼の婚約者マージを呪う。「邪魔しやがって!」と叫びながら。

 ところが、映画版のリプリーはフィリップになりきって鏡の中の自分(つまりフィリップ)にキスしながら「マルジュ(マージのフランス読み)愛してるよ」とつぶやく。映画版のほうがめちゃくちゃにこじらせている。監督のルネ・クレマンはゲイだったと言われているが、パトリシア・ハイスミスと同じく生涯、自分のセクシャリティを隠し通した。

 原作の『太陽がいっぱい』のリプリーはマージに興味を示さないが、映画版のリプリーはマルジュを誘惑する。それはマルジュを愛しているからではなく、フィリップのものをすべて自分のものにしたいからだ。

 ルネ・クレマンはマルジュ(マリー・ラフォレ)をフラ・アンジェリコの研究をする学生という設定にした。フラ・アンジェリコは数多くの天使の絵を描いた画家で、その名前も天使を意味する。マルジュは天使のように汚れない存在として描かれている。そのマルジュを誘惑するリプリーは、悪魔だ。

 このルネ・クレマンの解釈の影響を受けたパトリシア・ハイスミスが書いたのが『アメリカの友人』、原題「リプリーのゲーム」だ。

 「リプリーのゲーム」という原題から、筆者は、ローリング・ストーンズの『悪魔を憐れむ歌』の歌詞を連想した。キリストの処刑、ロシア革命での皇帝一家虐殺、ナチスの電撃作戦、ケネディ大統領の暗殺など人類の暴虐に介在してきた「私」つまり悪魔が、こう言う。「私のゲームの本質がわからなくてお困りのようですな」

 そのゲームとはゲーテの『ファウスト』で悪魔メフィストフェレスが神と遊んでいたゲームだ。神とサタンは、神の子である人間、ここではファウストを誘惑して悪の道に引きずり込めるかどうか賭けをする。そのゲームだ。だから、『アメリカの友人』でゲームするリプリーはメフィストフェレスでもある。

 永井豪の『デビルマン』も思い出した。人類の歴史を操ってきた魔王サタンが純粋な少年・不動明を悪魔と合体させる。しかし不動明は悪に染まることなく正義の戦いを続ける。そんな不動明を見て、飛鳥了、つまりサタン、つまり堕天使ルシファーは彼を愛してしまう。

リプリーもなぜか命がけでジョナサンを助けてしまう。なぜだと訊かれても「道楽だ」としか答えられない。見返りは何も求めない。友情も。なぜなら、それは愛だから。

『鳩の翼』のケイトはミリーが病で死んでから彼女を愛していることに気づいたが、リプリーは間に合ったのだ。

 ちなみにこれを映画化したヴィム・ヴェンダース監督は、リプリーの同性愛や悪魔性にまるで気づいていないように見える。その鈍感さがいかにもヴェンダースらしくて面白い。

(初出:河出文庫『アメリカの友人』解説 2016年に増補)