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わたしのお父さん

父は昭和一桁生まれの、時に厳しく、こわい父でした。
 

父のまえではティーンエージャーのようにいつまで経っても素直になれず、毛嫌いしていました。
父がやってくれたことより、してくれなかったことばかり数えていました。
それなのに今はやってくれたことしか思い出せません。

夏にはいつも長野の蓼科へ行き、山に登ったり川で遊んだり、冬にはスキーに連れていってくれました。

学校の成績や勉強に口をだすことは滅多になかったけれど、
高校の面談で担任の先生から「お嬢さんは会社のおじさま方に好かれそうですね」と言われると、その帰り道「考え方が貧相だ」と憤慨していました。

英語に堪能で、英語のスピーチ原稿に悩んでいると、ちょこっとユーモアを取り入れたユニークな原稿を書いてくれました。

卒論提出締切の朝、国語学論文の序章が書けず途方に暮れていると「拙速」という言葉を教えてくれ、その場で大伴家持の句を引用した文章をさらさらと書いてくれもしました。

家事をすることは滅多になかったけれど、母が亡くなってからは自分で洗濯も掃除もこなしご飯を作っていました。
毎日英語で日記を綴る傍ら、俳句や短歌も嗜んでいました。

歴史や美術にも長けていて、聞けば辞典みたいにいろいろ話してくれました。
奈良の吉野へ桜見物へ出かけた際は、楠木正行の辞世の句を誦じ、「知らない」と言うと「そんなことも知らないのか」と嘆かれました。

海外へ出張にいくと伝えると、オフィスで仕事するだけではだめだ、街に出て人と話し、文化を学んできなさいという人でした。

カレーのお皿をペロッとなめ、喫茶店ではクリームソーダを頼む父でもありました。

大きな荷物を持ったおばあさんがバスの乗り降りに苦労していると、すぐに席を立って手を貸していました。

朝からクラシック音楽のレコードをかけ、会社の演奏会にもよくきてくれました。帰りには一緒に近くのホテルでケーキをご馳走してくれ、うれしそうに感想を聞かせてくれました。

実家へ帰ると料理教室で習ったお魚の煮付けや酢の物をつくって出してくれました。

逆上がりに苦戦する私の目の前で、手をもっと体に引き寄せて回るんだよ、と実技を披露してくれたのは90歳になる年のお正月での出来事でした。

心がぼろぼろになって会社へ行けなくなったわたしに「たまこの面倒は見るから」と言ってくれたのも父でした。

病院やホームへ会いに行き「そろそろ帰るね」というと、いつも「いやだ」と言って寂しがりました。

「私はたまこのことが大好きだよ」とメールをくれていたのにわたしは返信せず、父が逝く日の前日まで「わたしもパパのことが大好きだよ」と伝えられませんでした。

わたしのパパになってくれてありがとう。わたしはパパの娘で幸せです。

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