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短編小説 『岬』

1.再会

 まさか、と振り返るまでに5秒は経過していた。

 記憶が現実に追いつくまでに時差を引き起こす。柔らかそうな紺色のニットカーディガンとアーモンドミルクのような曖昧な白いTシャツの質感が、遠く甘い思い出の香りによく似ていた。間違いない。


 逸史と別れたのは3年前のちょうど今頃だった。
 遠くをみるような表情ばかりが思い出されるくらいの、温度の違いでへとへとになるような恋愛だった。何にも悪くない。わかってる。恋の終わりなんてそんなものだ。
 どうしようもなくなるほどに傷つけあうくらいなら、これくらいでやめておこうっていう大人の引き際がわかってしまう年齢の、それでいてこの先の人生ずっと一緒にいることを少しでも描いてしまった年齢の、よくある最後なんだろう。

 はざまで行き場を失った熱量が、余計に頭を混乱させる。発する言葉は本音からかけ離れていき、夏の始まりの都会のむせかえる室外機の空気の中に蜃気楼のように消えていった。
 すっかり汗ばんでいたスカートと太ももをなんとかひきはがすようにその場を離れようと試みた。たぶんこれで最後なんだ。もう会わないんだ。そんな締め付けられるような思いが足どりの重さを余計に重々しくさせていく。それでも振り切るように店を出た。
 精一杯だった。


 その後の私の人生は、大げさに言うならば白昼夢のような、夢遊病のような、ピンボケしたものだったと思う。
 時々くっきりとした輪郭を持って耳に届く音が、無理やりに軌道を少しだけ戻してくれていたから、なんとか今まで生きてこれたようなもので、あの熱風がむなしく外の空気に消えていくような感覚は、まるで有名な油絵の絵の具が何百年とその思いを刻んでいるように、今もなお固形のように私の中に居座り続けていた。


2.雅美



「それで、声をかけたの。」
親友の雅美に促されてまた我に返る。自分から相談をもちかけておいて、また意識がどこかをさまよってしまっていた。

「かけなかった。」
「なんで。」
少し考えてから私はその自分の気持ちを解き明かしたくて、雅美を呼び出したのだということに気づく。
「…わからない。なんでだろう。」
雅美は優しい表情を崩さなかった。

 休日さえもしっかりとした生地のぴんとしたシャツに、質が良さそうなグレーのパンツを着こなしている雅美はバリバリのキャリアウーマンなのだが、いつもこうして人の痛みをわかろうとしてくれる人だ。
 そして不必要に追求しない。ゆっくりとカフェラテをかき混ぜながら、私が自分で考えをまとめるのを待っているように伏せ目で促してくれていた。

 声をかけることは簡単だった。なんてことないことを装って明るいトーンで高い声を出しながら、なにーびっくりしちゃったよ、久しぶりだね、なんていう当たり障りのない会話をすればよかったのだ。
 だけどできなかった。それが答えだった。振り返れもしなかった。

「胸が痛い。たぶんまだ忘れてない。」
雅美は目の奥で少し微笑んだ。何も言わずに大きく深呼吸をして、ただ目の前でそばにいてくれた。


3.虚空の夜


 家に帰ってからも雅美からの優しいLINEメッセージが届く。こういう時に親友の存在は本当にありがたかった。気がつくと虚空に消えていきそうな自分の存在を現実に戻してくれる。時間が解決してくれるなんてことは都市伝説なんだろうか。とめどなく押し寄せてくる切なさに押しつぶされそうになりながら、気づけばソファーで眠ってしまっていた。


 雲の中をかきわけながら進む。雲は重たさを感じるようでいて、手に触れると綿あめを水に溶かすようにあっという間に消えていく。
 とにかく進まなきゃ、と前に歩みを進めていくと、古い扉と格調高い建物が現れ、老人に中に招き入れられる。何かを語りかけられ、聴き入るのだが、いっこうに聞こえない。
 何度も語りかけられ、尋ね返しても、近寄ってみようとしても、どうにもならない。大事なことを伝えてくれているような気がするから聴かなくちゃ、だけど聞こえない…。


 大量に汗をかいて、合皮のソファーに張り付いた気持ち悪さで目覚める。
まだ深夜だった。水を飲みにキッチンまでいくと、テーブルの上に一枚のチラシがあるのが目にはいる。ヴィンテージ家具のオープン記念セールのお知らせだった。

 明日から1週間、20パーセントオフ。ちょうどコーヒーテーブルがガタついていたので探していたところだった。明日、気分転換に行ってみようかな。


4.LIME LIGHT


 雑誌の挿絵の仕事をはやめに納品し終え、まだ太陽が高いうちに外に出た。家から歩いて10分程度のところにできた家具屋だった。途中で南米から豆を仕入れて焙煎までをこなすこだわりのコーヒーのお店に寄って、いつものブレンドを注文し、片手に持ちながらぶらぶらと歩いた。

 春のはじまりははっきりと感じられるのに、夏のはじまりはいつも気づかないうちに変わっているなあ、などとぼんやり考えながら線路沿いの道を歩く。
 ふとこれは私の意見だったのか、逸史の言葉だったのか、わからなくなる。何度も同じようなことをお互いに言い合っては、そうだね、と言い合っていたから、わからなくなることが多かったのだ。
 と、また逸史のことを考えている自分に苦笑しながら、線路沿いの脇道のところにセンスのよい看板をみつけた。

 『LIME LIGHT』。チャップリンの映画からとった店の名前が書かれた看板に右に曲がることを促され、初めて通る道を入っていく。ほどなくしてそのヴィンテージ家具店の前に飾られた花が目に入る。

 中の様子を覗こうと体を斜めに傾けて入り口を眺めていると、よく響く低い声でふいに話しかけられた。
「どうぞ、中入ってみて。」
 店の外にそなえつけてある古いベンチに浅く腰かけ、煙草を親指と人差し指で挟みながらその人はこちらを見ていた。少し猫背で、やや長めの黒髪を後ろで束ね、ラフな古着のTシャツにジーンズ、ビーサンという出で立ちのその男性は、いかにもヴィンテージ家具店の店員といった風貌だった。
「あ、ありがとうございます。」
人がいると気づかなかったところに急に話しかけられて思わずどもってしまった。そんな私の焦りをみて、吹き出して軽く笑ってくれて助かった。私も軽く会釈をして店内へと入る。

 大きめの家具をベースに天井まで積み重ねられた家具は、ヴィンテージらしい趣をたたえつつもすっきりとした佇まいのものが多く、センスの良さをうかがわせる。所狭しと陳列されている家具のひとつひとつを見ていくと、それぞれ個性はあるものの、ひとつの統一した方向性の中に存在しているものたちでまとめられており、乱雑そうに見えた店内も独特の丁寧さを感じるような作りだ。

 気づけば先ほどの店員の男性がこちらに近づいて来た。たばこを消したての匂いと家具の香りが混じって、独特のお香が焚かれているような不思議な感覚になった。
「全部アメリカのもので。」
いきなり隣に来て話題をふられても、心地よさを感じるような存在感の人だなと思った。


4.集


 店員さんの中でも2種類いる。何度通ってもどうしても緊張感が抜けないタイプの人と、はじめてなのに旧知の仲のように自然な空気が流れて、ついつい長居してしまうようなタイプの人だ。この人は明らかに後者だな、とぼんやり思いながら、話を聞いていることを伝えるように顔を見上げる。
「気になるものがあったら言ってください。」
愛おしい子どもたちを見るような目で家具たちを見渡しながらその男性は続けた。昨日から続いていたある種の体をこわばらせるような感情が少しだけほどけたような気がした。だれかの、自分が本当に愛しているものに対する愛情をほんの少し垣間見るだけで人間は救われるものがあるんだなと思った。

「全部おひとりで選んだんですか?どれも素敵。」
私が続けると、彼はうれしそうに微笑んだ。
「そう。あちこちに行って全部自分で触って確かめて。そういう作業が好きだから。」
 どこか知らない外国の家具屋で彼が真剣に選んでいる様を想像できた。乾いた空気と埃っぽい空気。熱風のその中で、ひとつひとつに向き合う姿。
 なぜか涙がこぼれそうになった。いけない。これじゃ本当にかなりの情緒不安定だ。あわてて顔を背けると、冷静さを取り戻そうと胸に手を当てた。
「何かお探しのものとかありますか?」
そんな私に気づくこともなく、彼が質問を続ける。私はとにかく落ち着いた声を絞り出して答えた。
「コーヒーテーブルがガタガタしてて。なにかいいのがあるかなと思って。」
彼はなにかを思い出したように眉を軽くあげて、店の奥へと歩いていく。

「あ、あったあった。」
独り言をつぶやいて家具たちの裏から引っ張り出してきたものは、まさに今私が持っているものと同じサイズのコーヒーテーブルだった。しかも色の加減に独特の陰影があり味わい深く、一目で私はそれを気に入ってしまった。
「わ、こんなの探してたんです。」
自然と笑みがこぼれる。彼も嬉しそうに目を細める。

 クレジットカードの認証を待っている間、お会計のテーブルの名刺に目が止まった。三浦集。ふ、と思わず笑ってしまった。
「本当に集めてますね。」
とつい本音を声に出すと、作業の手を少しとめて集さんも大きめに笑った。
「ほんとだよね。親もこんなにまで家具ばっかり集めるとは思ってなかっただろうけどさ。」

 名前が人生を導いていくのかどうかはわからなかったが、こんなにぴったりな名前ならつけた甲斐があるもんだろうなあ、と思いながら、自分の名前を書き始める。
 随分と書き慣れたサインは、手が勝手に書いているような感覚でさえある。

 西条岬、その名前を改めてまじまじと見つめてみると、まるで他人の名前のように思えてくる。岬のように遠くを広い視点で見渡せたことなんて一回もないけど、とひとりで苦笑していると、集さんが思い出したようにこちらを見た。

「そうそう、住所も。配送は俺がしますので。」
と少しバツが悪そうに付け加えた。
「なんか、最後まで家具のこと見届けたいというか。」

 それはきっとこだわりとかそういうこと以上に、愛情で動いている。その感じが、先ほどと同じような救いのような気持ちを私の心の中に灯していた。
「よろしくお願いします。」
しかし私はその気持ちをあまり表に出すこともできないまま、事務的に日取りを決めて店をあとにした。



 同じような天気なのに、一段階トーンが明るくなったような印象を受ける空を見上げながら、今度は別の道を選んで、少し散歩がてら寄り道をしつつ歩いた。
 昨夜の絶望的なような気分が和らいでいる単純さに逆にほっとしながら、その感覚が消えてしまわないように、大切に持ち運ぶかのように、そうっと歩いて帰った。


5.コーヒーテーブル



 ピンポーン、とお馴染みの機会音が鳴る。
 ドアをあけると、先日と同じようなファッションに、今日は髪をおろした集さんがうやうやしく包んだコーヒーテーブルを持ってきてくれていた。
 丁寧に包みをあけると、一目惚れしたそのコーヒーテーブルが顔を覗かせる。やっぱり買ってよかったな、と再び満足に思っていると、集さんが指定した場所まで運んで設置してくれた。

「うん、すごくお部屋のテイストにあってるね。」
その言葉に、なんだか自分が褒められたみたいに嬉しくなりながら、ドリップコーヒーを淹れ、集さんに差し出した。
「ありがとうございます。わざわざ家まで。」
集さんは借りてきた猫みたいに浅めにダイニングチェアに腰掛けてコーヒーをすすりこむ。
「実は初めて売れた家具で。あの日オープンだったから。」
と照れたようにつぶやく。それを聞いて、さらになんだか私の方の嬉しさまで増したように思えた。コーヒーの香ばしいいい香りが充満して、典型的な楽しい日曜日という趣が部屋に満ち溢れた。

 それから私たちは、世間話に花を咲かせた。途中集さんの買い付けの旅の話や、家具の話題がでるたびに、先日訪れたあの不思議とすっきりとした、それでいてあたたかみのある、どこか巣のような集さんの家具屋のことを思った。
 またきっと遊びに行こう。
 そう決意したことを集さんにも告げたあと、マンションの廊下を歩いていく集さんの背中を見送った。



 それからしばらくして、大型の雑誌の特集記事の挿絵を頼まれたこともあって、日夜必死で仕事に取り組むことになった。今はそれが有り難かった。
 あの再会以来蓋をしていたものが一気に溢れ出したかのように、しかも寝かしておいたぶんたちが悪いくらいに疼きだした傷跡が、幾度となく生活の中にサイレンのように響き続けていた。

 人はだんだん強くなるもんなんだと思っていたけど、正直なところ逆だった。むしろどんどん痛みに弱くなっているような気さえする。しかも人生はそれに立ち止まることを待ってくれない。ただひたすらに、早いようで遅いようで、とにかく流れ続けるのだ。良くも悪くも。
 その潮流に翻弄されるがままに日々をこなしていった。気づけば1ヶ月近くがたっていた。

6.置いてけぼり



 そうして仕事がひと段落した次の日曜日に、いつものコーヒー屋さんまで切らした豆を買いに出かけた。
 ふと集さんのお店のことを思い出す。
 そのまま線路沿いを歩いて例の看板のところまで歩いたところで、看板が出ていないことに気づく。おそらくここだったであろう小道を右に入ると、店のシャッターが下がっている。

『しばらくお休みいたします』
と急ぎめの文字で書かれた紙切れが一枚ぺたりと貼ってあり、夏のなまぬるい風に時折はためいていた。
 オープンしたばかりなのにお休みだなんて明らかにおかしいなと思いながら元来た道を戻っていくと、遠くに集さんらしいシルエットが確認できた。

「集さん。」
 あまり普段はださない大きな声を出したので、うわずったようになってもどかしい。案の定気づいていないようだ。もう一度、今度はすこし高めの声で呼びかけてみた。集さんは目を大きく開いてこちらを見ると、手を力なくひらひらと振った。

 ことの顛末はこうだった。
 集さんには離婚した奥さんと小さな息子さんがいて、その小さな息子さんが腎臓を患ったらしい。心細いのかしきりに集さんに会いたがり、片時も離れたがらなかった。集さんは店を一旦閉めて、入院中の息子さんにずっと付き添いをしていたのだそうだ。
 せっかくオープンしたばっかりだったんだけど、仕方なくね、と少し痩せたようにみえる集さんは続けた。

 たった一度家具を買っただけなのにすっかり家族の内情にまで精通してしまった私は、なんとなくお返しのような気分で自分の最近のことについて話していた。
 どことなく他人で、どことなく赤の他人ではない微妙な距離が素直に話すことを許してくれたような感じだった。
 何も言わずにじっくりと聞いていた集さんは、しばらくコーヒーを握りしめながら目の前の空をみつめていたかと思うと、ふいに口を開いた。

「たぶんそれは、忘れてないんじゃなくて、置いてけぼりになってるんだね。」
抽象的な言葉すぎて、一瞬私にはなにがなんだかわからなかった。

 置いてけぼり、って私が?いったいどこに。そんな考えがぐるぐる回っている私に気づいてか気づいてないのか、集さんはマイペースに続けた。
「俺は男だけど、なんかわかる。完了しきってないものは、いつまでも残っちゃうその感じが。」

 確かにそうだった。今までぼんやりと生きてきたけど、ずっと逸史のことばかり考えてきたわけじゃないし、途中なんとなくうっかりと付き合った人さえもいた。
 ただ、再会がきっかけになって、私の中にあった傷口の中身が、治りきってないのに無理やりにかさぶたみたいなものをつくって、蓋をし続けていただけだったということに気づいた、ということだったのだ。

 納得するようにうなづく私と、そのまま前をまっすぐみた集さんは、何を言うでもなく、そこにしばらくの間座っていた。


7.棚の中のリンゴ


 夏の夕暮れはいつも少し寂しい。
 小学生の頃、夢中で遊びまわったあとにもう帰らなくちゃいけなくなる時間の、空気が少しずつ夜を含んで質を変えていく様や、昼間のセミの声や賑やかな人々の声がいつのまにかボリューム・ダウンして、みんなで示し合わせたように家路につくことを指し示しているような雰囲気。
 大人になったら夜にずっと外にいたっていいのだし、自由に行きたいところへいけるはずなのに、その寂しさだけが妙に残っていて、そわそわしてしまう。
 その感情にのまれて、私は集さんにお礼を言い、その場から離れた。それでも、ゆっくり考えながら歩いて帰るには最適の空気感だった。


 夏はいつか終わる。秋が来て、冬が来て、当たり前だけど春が来る。
 一年、と数え始めたのはいったい誰だったんだろうか。そうやって区切り目をいくつも越えながら、私たちは自分たちが時間を過ごしていることに気づいていく。

 同時に、自分に残された時間ってあとどれくらいなんだろう、というような発想もできる。
 もしもそんな区切りさえもなかったら、私たちは自分の過去や未来についてどんな風な見方をするのだろう。もっと鷹揚に構えるのだろうか。
 しかし私たちには物心ついたときから、一斉にそのシステムの中で生きてしまっているので、そんなことを考えたからといって、すぐにそうなれるわけではないけれど。


 時間が解決するよ、と言い聞かせて、やりすごそうとしたのは確かだった。
 とりあえずテーブルの上にあったもう賞味期限が終わったような色をしたリンゴを、無理やり棚の中にいれたようなものだ。そして時間が解決なんて言ったって、棚の中のリンゴが溶けてなくなるわけじゃない。
 いつか開けて、自分の手で捨ててしまうときまで、そこにじっとリンゴはいる。でもいつしか日々の忙しさに追われて、リンゴの存在を忘れたような気になっているということだったのだろう。そう思うと、リンゴのことがちょっと不憫に思えてきた。

 どこからか聞こえて来る夕方の電気的な懐かしいメロディーを聴きながら、集さんが設置してくれたコーヒーテーブルのある自分の部屋へと戻って来た。

 まだ胸の奥は疼いているけど、不思議ともう夜が怖くないような気がした。

8.完了させるために


 日曜のカフェはたまのお休みを満喫しようと意気込んだOLさんたちでいっぱいになる。私たちと同様に、皆しばらく会えなかったうちにたまった話題を共有するのに夢中だ。

 雅美はいつものごとく颯爽とした出で立ちで現れて、慣れた様子でカフェラテを注文する。私は綺麗な花がカップの中に咲く中国茶を注文した。

 頭のいい雅美は私の雰囲気の変化に目ざとく気づいて早速話題を振ってきた。私も、前回の時とは明らかに違うせいか、自分の気持ちを話すことが少しだけ流暢になっていることに気づいた。

 私が気持ちを話したり思い出を語ったりするのを聞きながら、雅美がそれを秘書のようにまとめていくというスタイルは昔からだった。
 私はどちらかというと自分の気持ちを整理するのが得意ではないから、雅美にファイリングしてもらうような作業はとても助かっていた。
 そして私たちは、ひとつの結論に至った。

 出すことのない手紙を書く。
 突拍子のないようなアイディアではあった。しかし、逸史との関係を完了させるために私ができること、例えばもう一度連絡をとって実際に会って話をすることや、電話をかけて話をすること、はたまたメールを書いて思いを送ったりすること、そういった『相手』を巻き込む作業が、本当に完了と呼べるのだろうか?というのが結論だったのだ。

 きっと私と同じように、あの頃と逸史は変わっていないだろう。人間はそう簡単に変わったりはしない。だからこそ私たちはあそこで終わりを迎えるしかなかったんだ。選択肢は今も変わらず一つだ。
 私の気持ちや考えをもう一度説明したって、きっと理解してもらえない。理解するようなそぶりを見せてもらうことはできるかもしれない。だけど本音じゃないのがわかる。そしてその態度に傷ついて、ますます溝が深まっていく。
 だからこそ、手紙を書く。自分のために。


 雅美とハグをして別れ、家路に着く途中、私の心はもうすでに手紙の中にいた。堰を切ったように溢れてくる思い。こんなにもずっと、こんなにもたくさん、私は伝えたくてたまらないものを持っていたんだ。


9.手紙


『逸史へ
 元気ですか。こないだ街で見かけました。変わらない様子でよかったです。
 今日は伝えたいことがあって手紙を書いています。
 あの日、私は物わかりよくあなたのことをわかったふりをしていたけれど、本当はちっともわかってなかった。ただ私たちの一緒にいた時間を無駄たったと思いたくなかったから、きれいに終わらせたかっただけだったんだと思う。
 でも私はずっとずっと寂しかった。一緒にいたのにいつもひとりだった。あなたにそれをわかってほしかった。でも、いつも逸史の視点は自分の将来と、私の将来がうまくいくこと、今の生活をうまくいかせるためにするべきことに向かっていて、そこになぜか愛情を感じられなかったんだ。
 私だって喧嘩ばかりしたかったわけじゃない。だけど、気持ちの結びつきの感じられない関係は、ひとりでいるよりもよっぽど寂しかった。
 何がそんなに寂しいの、何がそんなに不満なの、といつも聞いたよね。私にとって、きっと、「うまくいく未来」よりもずっと、今、お互いが本当に心の底からお互いを見つめて、理解しあえることを望んでいたんだと思う。
 もちろん全部考えてることが一緒になれるなんて思ってない。だけど、せめて、お互いを理解しようっていう気持ちを持っていることを感じたかった。それだけだったんだよ。』

 と、ここまで書いて、ずいぶん女々しくて、一方的で、自分で自分が嫌になりそうになった。でも、と思いなおす。誰に見せるものでもないんだ。置いてけぼり、といった集さんの言葉がこだまする。そう、置いてけぼりになっている自分を助け出すつもりで書くんだ、と思い直し、手紙を続けた。

『好きだった気持ちは嘘じゃない。逸史の気持ちもわかってたつもりだった。だけど、どうしてあんなにも傷つけあわなくちゃいけなかったんだろう?なぜ好きなはずなのに、それを確認するのにこんなにエネルギーがいるんだろう?なぜ単純に好きだと確認しあえなかったんだろう?それが悲しくて、くやしくて、その気持ちが大きすぎて、私は何も言えなくなってしまってた。
 一緒にいられなくなることを選ばなきゃいけないことが、本心からかけ離れてた。本当は一緒にいたかった。でも一緒にい続けてずっと傷つくかもしれないことが怖かった。だから私は逃げたんだ。』
筆を思うままに走らせて、最後に自分が書いた言葉に、自分で驚く。そうか、私は逃げたんだな。その時、心の奥底から熱い涙がぽとりとこぼれた。 
 そして、梅雨の雨のように、ぽとり、ぽとりと続いたかと思うと、最後にはざああざあの雨になって流れ続けた。
手紙が溶けてしまうように思えるくらいに、長い雨が降ったかと思うと、重たく分厚い雲が少しずつ離れていき、切れ間から明るい光が差し込んでくるようだった。

「逃げて、ごめん。」
と私はひとりでつぶやいた。心から謝れた。やっと。

10.LIME LIGHT、再び


 翌日は曇りだった。
 いつもご機嫌な鳥たちの合唱が聞ける場所も今日は静かだ。それでも悪くないな、と思った。そしてしっかりとした足取りでLIME LIGHTを目指す。

 昨日の手紙は、とりあえず封筒の中にいれて、引き出しの中にしまった。焼いてしまおうかとも思ったが、なんとなくそこまでドラマティックな作業は必要がないように思えた。私の中での完了、それが一番大事なことであって、それがどういう儀式なのかという表面的なことはどうでもよかった。
 集さんの話では、今日からはまたお店を開いているはずだった。集さんにまずはお礼が言いたかった。

「岬ちゃん。」
ふいに呼ばれて、駆け足でかけよった。
 いつもの古いアメリカの広告が擦り切れているベンチに軽く腰掛けて、集さんはこちらに向けて手のひらを振った。

「集さん。こないだ、ありがとうございました。」
感謝の気持ちが言葉の重みを軽く超えてしまっていたから、私はなんだか焦りに似た気持ちを感じていた。
 そんな私の気持ちとはうらはらに、集さんはきょとんとした表情でこちらを見ている。
「うん、なんだっけ?」

 そのとぼけた表情と言葉が、なんだか本当になんてことないことだったかのように思わせてくれて、ますます私は救われた気持ちになってしまった。ゆっくりとしたテンポ感が心地よい。


 そして時間をかけて、私はこの数日のことを説明することができた。集さんは、真剣な面持ちで話に聞き入り、そしてこう続けた。
「不思議だよなあ。人ってさ。自分の中で起こってることがすべてなんだ。いつもいつも相手にどう思われるかとか、どうしてほしいとか、そんなことばっかり気にして生きてしまうけど、肝心なところでは、最後は自分なんだよな。そこには時間とか関係なくて、どんなに昔のことでも、一緒なんだよな。自分の中で終わってないものは終わってないし、どれだけ時間が経ったとしても、終わらせることもできる。そしてもちろん、前に進むことも。相手あってのことで起こってる感情なのに、感情は自分のものだから、結局最後は、相手なんて関係ないんだよな。」
と、独り言をつぶやくかのように言った。

 そう言った集さんの表情は、この古い家具たちと同じように、色あせたり染みがついたりした過去のいろんな経験の、その色合いの味わいに似てとても深く魅力的だった。私は思わず、
「集さんって、この家具みたいですね。」
と素直に伝えた。集さんは照れくさそうに笑った。どうやら、私の気持ちは伝わったようだった。


11.岬


 店の中のいくつかの大型の家具が無くなっていた。開店記念セールで売れていったらしい。少しスペースのできた店内で、緑色の古いベルベット風の座り心地のよい椅子をみつけて腰をおろしてみる。すぐ横にあるきれいなガラスがちりばめられた鏡台に目がいく。鏡が映し出した私は、この巣の中でぬくぬくと春を待つ、冬眠中の動物のように見えた。

 こういう場所に出会えてよかったな、と心から感謝した。長い間大切にされ続けたからこそ、この世の中に未だ存在しているであろう家具たちが、また別の、遠い島国にいるある青年に見染められ、そしてまたその家具を大切にしたいと感じる誰かのもとへと運ばれていくのだ。
 時間というものの、美しい抱きしめかただ。もしそれがいつか壊れたとしても、永遠に残り続けるのだろう。記憶という不可思議な写真アルバムの中に。


「お留守番ありがとう。」
と私のお気に入りのコーヒーショップのコーヒーを手渡される。
 私は微笑んで、淹れたてのいい香りを楽しんだ。
「そういえば岬ちゃんの岬ってさ、先端に立つって意味かな。なんていうか、全部の地形の一番はしっこで、海のほうを見て、まだ見ぬ未来を見てるっていうか。」
思わず名前の由来について集さんに切り出され、その新しい視点に嬉しくなった。

 真実はわからない。だけど、その解釈がすっかり気に入ってしまった。


 岬。
 一番端に立って未来を見据える勇気は、その後ろに続いている全ての土地からもらったものだ。歴史全て、出会った人全て。それが私にとっての、後ろにある大地だった。

 そして、そこに吹いている風の音を聞きたい。それから、移りゆく空も。
それがたとえこの先、どんなに変わり続けるものだとしても。


(終わり)


☆最後まで読んでいただいて、ありがとうございました!
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