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アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? 「見えざる手」と「見えざる心」:贈与経済について考えよう

最近 ロマンチックに愛の詩を投稿したり
してたのはここに到達するため♡
経済学に愛をぶち込むためだ。

我が母校 ロンドン•スクール•オブ•エコノミクスでの上記著作「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」著者の2015年講演において経済学者達が抵抗を示したそうなのだ。
いいのだ。
私が母校を愛しているのは
極左であるのに
マーガレット・サッチャー、ハイエクなど
極右思想の講演者を依頼するところ。

学生時代、
当時、学長であるアンソニー・ギデンズ批判をしたところで教授陣は面白いねと笑ってたし、私の指導教官は「愛」という概念をコード化して博士論文を書けと薦めた張本人だ。

経済と愛…
いま私の目の前で
バカな黒猫とうふちゃん🐈‍⬛が
カラスに闘いを挑んでいる。
もうやめてくれ〜とうふ…
また怪我して動物病院 そして手術かも

蜂を追っかけ猫パンチ。
こっちがハチ・アブジェットでシューっ。
ティッシュを取りに行っている間に
「殺虫剤」が噴霧された蜂を食べ
 〜動物病院
胃洗浄したばかり(汗)

保険の効かない動物病院は高額だ。
と思ったら
目の前に

死にかけの猫🐈‍⬛
また何十万かかるのか?
おむかえの陽子さんが半額出してくれた
陽子さんは優しい。でもそんなご近所さんに恵まれない場合だって今や
クラウド・ファンディングはすごい!

だから
今読むべきは
「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」

経済学に抜け落ちてきた議論について考えるべきなのだ。

贈与 与えることと愛について 笑笑
予測不能なひとの心について

2008年の金融危機が起こったとき、
英国女王エリザベス 2世が我が母校 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)を訪れた。専門家たちが危機の事情を説明すると、女王はあきれ顔で言った。

「なぜ誰もこれを予想できなかったんです?」

ノーベル賞経済学者のロバート・ルーカスはエリザベス 2世の疑問に答えて、エコノミスト誌に弁明を掲載した。2008年の金融危機を予測できなかったのは経済学者の落ち度ではない、なぜなら経済学者は

予測不可能であることを
ちゃんと予測していた
からだと。

その通りなのだ。
ニュートンに心酔し
自然の摂理バランスに従えば
経済は「神の見えざる手」に導かれうまく行くとアダム・スミスは主張したが

そのニュートンも

「星の動きは計算できるが、人の狂気は計算不能だ」

と言っており

ハーバード大学教授でケネディ政権の外交官を務めたジョン・ケネス・ガルブレイスも

「神は占い師の地位を高めるために経済学を創り給うた」

と皮肉ったほど。
ただし

女王がその答えに満足したかどうか(汗)

でも
ノーベル賞経済学者の言う通りなのだ。

フロイトと往復書簡も多いケインズもマーケットを動かす集団心理をジェットコースターのようだと比しており、感情や衝動、人々の思い込みが市場を動かし、また潰しもすると1930年代から論じていた。 市場に参加する「匿名」の集まり=集団心理など予測不能だからだ。2008年の金融危機を受けてふたたび脚光を浴びたケインズ。
(下記、ジョージ・アカロフとロバート・シラーの著書 参照)

英語で経済を意味する単語「 economy」はギリシャ語のオイコノミカ (oeconomica) に由来。家を意味するオイコス(oikos)と秩序を意 味するノモス (nomos) をもとにして作られ、元来、家庭をうまくやりくりする「家政」を意味していた。語られない、そして語り得ない私的な領域、家を、夫を、妻を、そして子ども達を、犬や猫や、その昔は牛をうまく回す方法がオイコノミカだったのだ。(動物病院代金も含め(汗))

しかしながら
予測不能な人々の心理は
私的な領域へと追いやられ

「見えざる手」ばかりに人々は着目し

「見えざる心」が経済を実は支えている

ということが経済学からに抜け落ちてしまった。(Folbre, Nancy, The Invisible Heart: Economics and Family Values)

LSEで講演した上記著書の著者カトリーン・マルサルが経済学者たちの強い反論を受けたことは上述した。
再度 思い出そう。
ノーベル経済学賞受賞ロバート・ルーカスが女王の疑問に答えてエコノミスト誌になんと弁明を掲載したかを。

予測不可能であることを
ちゃんと予測していた

その通りである。
ひとびとの欲望や羨望、嫉妬や愛、欠乏を埋める心がマーケットを日々ジェットコースターのようにアップダウンさせ、また安定もさせているのだ。

なのに
経済学は「愛(心)を節約」し
経済学は「愛(心)の節約」=「利己心」を

研究する学問になってしまい、測り得ないひとびとの愛や複雑な心理は私的な領域へと追いやられ、

計測可能なところだけを
計測したから

予測し得ないことが
予想し得ないこと
しか
分からないのだ。

女王の指摘の通りだ。

「見えざる手」の届かないところにある
「見えない心」や
「見えざる性」
問わねばならないのは
「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」

である。

アダム・スミスは確かにこう言っている。
肉屋は顧客を満足させるために働くが、それは結局お金を手に入れるためである。酒屋もパン屋も、人を喜ばせるためではなく、利益を上げるために働いていると。でもスミスが「道徳感情論」で「見えざる手」について書いているところを再読してみよう

「見えざる手に導かれて、大地がそこに住むすべての人の間で均等に分けられていたら行われたはずの分配とほぼ同じように生活に必要なものを分配し…」

利己心について書かれているだろうか?
スミスは「見えざる心」=愛や道徳心について語っていたのだ。

アダム・スミスが大切にしたのは「心の平穏」(道徳感情論)

そして
「善い心 の状態」「good states of mind」 を重んじたケインズ。

同性愛を公前にされたケインズは後にバレエダンサーと結婚したが芸術性豊かな人だった。「倫理学雑考」でケインズは芸術を含み、人に「善い感情を呼び起 こさせる」もの(fitness) は何でもそれ自体善いとした。心に fit =フィットネスという言葉は、間違ってるかもしれないが私の拙い知識の中ではケインズから有名になったと思っている。

大蔵省代表として過酷な賠償請求を行なったベルサイユ条約を批判。ドイツを過剰に追い詰めれば必ず過剰=心理的なリバウンドが来ることを予測していたケインズの意見は聞き入れられず、大蔵省を退職。同年にはパリ講和会議の内幕とその失敗を論証した『平和の経済的帰結』を発表し、ベストセラーとなったもののまたもや強い批判を浴びた。ドイツがナチズムを生んだのは「過剰」が故なのだ。

バタイユは過剰をバランスに落としめることが経済のオリジナル=物々交換=贈与交換にあったと贈与経済について「呪われた部分」で論じている。過剰の溜まるところに「念」は溜まる。宝くじが当たったからとて幸せになれないのは、そこに人々の「欲」や「念」が集中するからである。

誰かから何かを受け取るということは「その人の魂の何ものか」を受け取ることに他ならないと言ったマルセル・モース。したがって、それを誰かに与えなければ、そのものに宿る霊が蓄積されるので第三者に譲り渡すしかないのである 。「倍返しだ」や「金は天下の回りもの」とは上手く言ったものだ。

贈与経済がいま進行しつつあり注目されている。

アメリカでオペラ歌手をしている我が娘を
オペラ歌手にしたのは
アメリカの音楽院での学費の全てを支払って下さったある個人=パトロンのおかげ。
その学校の生徒には
全員パトロンがつき
学費はOBなどのパトロンによって支払われる

私がLSEに行けたのも私の指導教官 マイケルのおかげ。「Tomoko お金大丈夫か?」日本に帰らないでも研究を続けれるようにロンドン近郊〇〇大学で講師職を見つけてきてくれたり、学部奨学金を取ってくれたり。マイケル LOVE♡

贈りものや愛が経済を潤滑している。安くものを譲ってくれるメルカリやクラウド・ファンディングだってそうだ。経済で語られて来なかった「愛」について少しこの本を読んで考えてみよう。

アダム・スミスの著作は生涯、彼の傍らで彼の世話をした彼のお母さんの愛と美味しい食事があったから生まれた。皆さんも好きな人が出来て、綺麗になりたい、格好良く思われたいetc 買い物に行かないだろうか?経済を語るときに抜け落ちてきたのはひとびとの「見えない心」や「見えざる性」セックスとしての「性」であり「アニマル・スピリット」とも呼べる人間の「さが」

贈与経済に興味をお持ちの方は私の別稿

もお読み頂ければ幸いです♡

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