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資本主義の火の浄化:「脱皮」と「森の生活」



アメリカ文学者ソローは以下のような「森の生活」を推奨している。

 森で家具は全て木から作り、できるだけ所有しない。家財道具に保険を掛けている現代人には考えられないような最低限の所有と交換の生活。

 ライ麦は痩せた土地でも育つし、とうもろこしにも最良の土地が必要というわけでもない。これでパンが作れ、甘いものが欲しい時にはカボチャで作る。

 カントリー調のローラアシュレイの人工のお花や葉っぱプリントのカーテンも要らない。お外にお花と新緑がある。窓からは月が差し込み、太陽がお部屋を温かくしてくれる。自然のカーテン=影だってどこかにある。

その日食べれるものがあれば神に感謝!

 モノが残って、残るから「ひとは死ぬとき、ほこりを蹴散らす」。屋根裏部屋にこっそりと財産を隠し持っていても何になろうか。(ホメロス 「イリアス」vol.22.330)

残るのは…シェイクスピア曰く「悪事」?

「ひとの悪事は死後まで残る」(「ジュリアス・シーザー」第3幕第2場80行)

 遺産は相続され、浄火で浄化され、屋根裏部屋のホコリは蹴散らされキレイになる。人間はもしかして「死ぬときになって、自分が生きていなかった」ことを発見するのかもしれない(ソロー「森の生活」(上))

 だから未開民族たちの風習の中にはしばしば浄火による清めの行事が存在し、動物は脱皮をするのかもしれない。イメチェン? 元彼にもらったブランド品を売り、髪型を変え、新しい彼好みの服を身に纏うのも脱皮の一つの儀式?

 ひとは最初、「食物」「ねぐら」「衣服」これだけさえあれば十分だった。

 食物は動物の熱の燃料、身体を温め、生命の火を絶やさせないための必需品。寒い時には多めに食べて太り(笑)、暑い夏には食べず体温を下げる。「死」とは「火」が消えること。

 人間とは体内温度を自動調整する壊れることの少ない極めてハイテクな自然のストーブ。ひととひとが体を寄せ合い温め合えば良いのだ。肉布団は心も暖かくする。どうしても足りない時には衣を重ねれば良い。それが衣服だ。(ソローibid.)

 人間が「燃料」=火を過度に用いるようになり体内温度と対外温度の差が過剰になり「衣服」が本来の「衣服」の目的ではなくなり「食物」も本来の「食物」、「ねぐら」も「ねぐら」でなくなった。「過剰」はそれらをそれらでなくしたのだ。それらは「実在の影」にすぎなくなった。飽食、贅沢レベルの食事や衣服、豪邸。ファンタジーと実在の混同。 

 必要以上に物を持たなければ論理的に盗みや強盗は生まれない。「必要以上に物をもっているひと」がいる一方、「必要な物さえもっていない人間」がいるから盗み=奪うという現象が起きる。

「ひとは戦に苦しまずともよ。ブナの木の椀のみ欲りしそのころは」(ティブルス「悲歌」第三巻)

 過剰な火を人間が手にした時、夜が昼に代わり、早くに年をとり早熟し始めた。昼が何度も来たと体内時計は勘違いするからだ。初潮年齢も早まってるそうな。

 森では実在と虚像の混同は起きない。冷たい川の水は冷たく、朝の光は朝の到来を示す。少しの風で草はなびき、刑罰も必要としない。(論語) 自然に生きるとは「きれいは汚い、汚いはきれい」シェイクスピア「マクベス」のような生活をしないこと。

 燃え尽き症候群とか言うが燃え尽きて何も感じないとこまで行かない、火を適度に燃やし続けること。ひとを愛して心温まれば良い。愛する人と心温まるお家での団欒。マルクス求めていたのはこれだけ。

 私が尊敬するある人は必要以上に所有しない。故、家の戸締りもせず錠もかけない。身をもって上記ソローのような「森の生活」を都会で実行しており、実際、森の生活を計画中だ。愛する人との森の生活がきっと一番温かい。「番(つがい)」とは自然の相思相愛という温かさ。

 経済学者 アダム・スミスやケインズだって同じことを言っている。「火は燃え、水は流れる」スミスの「見えざる手」の自然の均衡が実は「天文学史」と呼ばれる彼の書物に説明されていることはあまり知られていない。スミスは金持ち偏重の「小さな政府」主義者ではなく、人為的でないありのままのぼちぼちの自然が良いと言っているだけだ。

「ありふれた生活の些細な出来事 そうした何でもない出来事がもたらす小さな悦び」(アダム・スミス 「道徳感情論」)

そしてスミスの反対思想「大きな政府」論を持つと言われるケインズも
「労せず紡がざる野の百合」「ものごとを直接に楽しめる陽気な人」(ケインズ「孫の世代の経済可能性」)

 決して科学や数字で解明することのできない「過剰」が導く嫉妬や羨望のジェットコースターという大衆心理が動かす経済至上主義において失われた人間心理とはなんぞやと言うことを問うた経済学者がケインズなのだ。獣道は正しいかもしれない。でも獣道=大衆心理に惑わされず、森に「迷う」ことで「迷わない」(真実を見失わない)を推奨するソローのように、ケインズはフロイト同様、資本主義のもたらす倒錯に着目した人物だ。(ジル・ドスタレール+ベルナール・マリス「資本主義と死の欲動」、note 初稿 カヴェル「没落に抵抗すること」参照)

つまり、
過剰を求めるから取引や交換、そして盗みも生じる。食物も食物以上、衣服も、家屋も本来の意味を失う。「ない」を「ある」にしたくなる。

とどのつまり、
 取引や交換をできるだけしない。夜を昼としない。夜は夜。昼は昼。「ある」が「まま」。
 愛する人との自然な人体のストーブが満たすだけの暖で十分なのだ。ケインズが引く野の百合は太陽の日の光のもとポカポカ 生き生きと生きている。火が過剰を引き起こし「ある」を「ある」でなくし「ない」を「ある」とした。マルクスも交換において生まれた不自然という不均衡を是正する方法を模索しただけだ。

 当稿はじめに記した「過剰」の源たる「火」はイギリスの詩人トーマス・エリオットも言っていることだが、創造の力であり文明を産んだ火。だが、パッション=情念 受苦=火はそれを手にする人の性質次第でひとを温めも、焼き尽くしもする。

「物理的な火が、薪に働きかけて…始めることは…湿気を外に追い出し、薪が含んでいる水分をしぼり出してしまうこと…薪を明るくし、火に反対するような暗く…引き出し、追い払う。そして遂には、外側からそれを燃え立たせ始め、熱くしてそれを自分に変化させ、火そのもののように非常に美しくする(「十字架のヨハネ」in平野啓一郎「透明な迷宮」)

 愛に燃え上がると、人は自己オリジナルの性質を失い、求め、愛し過ぎた対象に一体化しその人となるのに同じで、過剰を追い求める資本主義の炎はマルクスをマルクスとして、マルクスの真の思想をマルクス思想として捉えさせない。マルクスの追求した資本主義の倒錯という過剰を生む欠如の穴は未だ埋められてはいない。

お家に帰って楽しむ愛する人との会話。マルクスが求めたものってたったこれだけなのだ。

 火という自由を人間に与えたプロメテウスはそんな我々の代理として永遠の受苦に繋がれたままである。最近公開された映画、原爆の父「オッペンハイマー」とは イコール 現代のプロメテウスなのだろうか? 山火事はハリウッドまで飛び火したのだろうか?










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