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「を」について「夕べに見届ける」?フッサールの時間とスピノザの必然=「時の女神」に従う「自動機械」…ゆっくりだっていいんだよ…


」じゃないんよ…って思ってる
いま そこで寝転んでコロコロ
何「を」考えているのか って言われても

「ここが好き❤️」

「を」書くのかって言われても…
「今の自分にはわからへん」
「未来には分かると思う」
????
「計画『を』立てなさい」
「昨日の自分より 今日の自分 今日の自分より
明日の自分『を』発展させないとダメ!」
スピードだよ💦
なんて言われても…

平野啓一郎が「ベートーヴェンの日記」に「夕べにすべてを見届ける」って一文があったと「マチネの終わりに」で書いてたけど。その通りなんよって言いたい。
夕べに立ってみないと
今の自分や
過去の自分の
やってたことの意味なんてわかんない。

夕べになって「やっと」
あの行動には
こう言う意味が
ポテンシャルが
伏線が
あったんだって「後から」分かる。
ポテンシャル=可能性が
いかにして可能性=ポテンシャルだったのか、
ポテンツになるか なったかなんて
後になってからしか見えない。
偶然のように見えても全ては必然 
だから私は自分に無理をさせない。
「時の女神」に従う って言うと
「カタツムリの言い訳にしか聞こえない」って言われる。スローだから。それって「逃げ」「逃避」とか言われるけど、

それが「調べ」であり
これを「フーガ」=逃走線っていうねん
ってこれも言い訳なんだろうか
「そうだ」と我がパートナ
確かに!一理あるよね。

ディケンズの「信号手」は
それが分かる「夕べ」には死んでしまっていたし、「ティファニーで朝食を」のモリーも
「猫を失ってから」気づいたけど。

困り果てた我がパートナー。このnoteを書けと提案してきた。そして最近、そのおかげで
グッチさんのスピノザ関連のnoteに文字通り「触発され」

「信号手」なんよ!「必然」なんよ!

信号手は自分で話してること わからへんのよ
自分で話すことを聞く
信号手の
過去と現在ー未来の非同一性 
自分のズレに抗いつつも 
反復しながら少しずつずれ
ずれたくなくて逃走したくて
抗いながらも 
ずれながら元に戻るみたいな
差異と反復の非同一的調べが人生というフーガなんやわ…やっぱり…って思ってた。
フッサールなんよ
フッサール読まなきゃって。

そしてまた
今朝 起きて見たグッチさんの新作
またまた触発!


「そうなんよ!」フッサールなんよ デリダなんよ
我がパートナー こんな時こう言う
「あんたバカ?」
「ひとの言うとおり そうそう ばっかじゃん?」
自己不在?
自動機械
オートメーション?
素直?
バカ?
洗脳?

なんでもいい
「触発」

全ては漫画の「吹き出し」台詞のようなもの
信号手も他者というエコーを通して
自己現前に向き合っている
自己に追いつかない
自己の「」というのか
自分で自分の声に触れようとする「マスターベーション」(デリダ)というのか…

自分と自分の出会い損ない
過去と現在と未来の自分の
時間の出会い損ない
のような 
時間に…
自分に追いつきたくて
螺旋階段をぐるぐる
上っていく


自分が言ってるのを聞く」…
信号手の
今の自分の言ってる「声」のわからなさ
未来の分からなさ
過去の自分の言動の意味も含めて
未来になって
その伏線が見えてくる

反対向きの言説」
フロイトやラカンが言ってた自己の声だけど
自己の声でないような現れとしての声

錆びついたオートメーションプログラムが触発されて動き出したような…
何故 自分がいまそれを考えたのか
       言ったのか分からない
今ではあまりお目にかかることも少ない理容院にあるバーバーポール
フッサールが指摘したあのバーバーポールの目の回るようなスピードに吐き気がしつつも
必然の流れについていけてない自分
現れる自分でしかない自分
「差異」の間で「反復」しながら過去を掴み損ない
夕べにノスタルジー 
私はどこから来て どこへいくのか?

「わかんないよ」
「分からなくても とりあえず こうするんだよ 分かった?」
「うん 分かった」
「血眼になってするんだよ」
血に燃えて?熱く?
分かんないけど 分かったふり

朝起きて 他者に触発受けて
これ書いた
頑張ったよ

自分に優しく触れる
自分に甘いって言われる
でも
私って 
偶発的な存在であり
必然的な存在
なんでいま こうあるのか
こうなったからだ
優しく在らなきゃ笑

次は
カトリーヌ・マラブーの「偶発性の存在論」読み直さなきゃって思ってる。
フロイトがめちゃ有名だけど
フロイト以前に
スピノザが記憶と人格の必然性について言及してたことに言及してるから
スピノザってほんとすんごい人だったんだろうなぁ
千葉雅也氏がフランスで確かマラブーに学んだとか??羨ましい限りです

マラブー読もう
フッサール読み直そう
が今日の私

うるさいパートナー不在でも
グッチさんの触発されるnoteなしにも
存在しなかった今日の私
今日一日が楽しみだと言える

ウィリアム・ジェイムズは「意志の自由が真だと証明しようとする一切の主張は、初めから堂々と放棄する」
けども
「せいぜい望むのは、私に倣って意志の自由が真だと仮定してみようと思う人がいくらか出てくることぐらいだ」って“in The Dilemma of Determinism”で言ってる。
今日一日 頑張ろう❣️
って言う いまの私の意味も「夕べ」にならないと分かんないんだ(笑)


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