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「知ること」と「信じること」in 芥川龍之介 「南京の基督」

芥川龍之介の「南京の基督』
主人公 金花は
キリスト教徒であり
年老いた父を養うために私娼をしていた

或る日、金花は
1) 自らが梅毒に犯されていること
2)誰かにうつし返せば自らは治癒するも
3)うつされた相手の病状はもっと悪くなる事実

を知る。

金花は以後、客を取ることを止めるも
自分の部屋に架けてある十字架のキリスト像に似た外国人との出会いだけは拒むことができなかった。

そして その夜の夢。
キリ ストがご馳走を与えてくれ
食べると病気がすぐに治る

翌朝
目が覚めた金花は
梅毒が治っていることに気づく
隣を見ると彼はいない。

やはり
彼の人はキリスト様だったのだ。
そして
奇跡は、キリストによってもたらされたと鑑み
神に感謝する。

真実は
英字新聞の特派員がやり逃げしただけ
「その女がすやすや眠っている間にそっと逃げてきた」
金花が起きる前にとっとと逃げたのである。

信じること vs  真実を知ること
芥川龍之介は
南部修太郎のとある新聞の酷評に手紙を書いて
こう反論している

君自身がさう云ふ心もちを感じる程
残酷な人生に対した事はないのか
君自身無数の金花たちを
君の周囲に見た覚えはないのか
さうして彼等の幻を破る事が反って彼等を不幸にする苦痛を嘗あた事はないのか

南部修太郎宛書簡、一九二〇年七月十五日付

芥川龍之介は
理性の限界と
知と信の背馳に着目。

知的に納得できなくても
そこに
信を賭す心持ちである…

以下、日本人旅行客が
知と信の間で
金花に真実を告げるべきか
迷う場面

「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と亜米利加アメリカ人との混血児だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透ロイテル電報局の通信員に、基督教を信じてゐる、南京の私窩子しくわしを一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼ぶらいな混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体この女の為に、蒙を啓ひらいてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」 (南京の基督 エンディング)

皆様はどうだろうか?
私にとって
彼は
「やり逃げした」George Murry でしかない。
これが私の限界であり
私の強さであり
弱さだと「知っている」
理性とは無力である。

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