ジョン・ケージ「4分33秒」の沈黙?:沈黙を作る音

音=精気
「ここに座って大人しく音を聴け」演奏会の椅子に縛り付けられて音を聴かねばならない「聴衆」の誕生はまだ歴史的には最近のこと。(「聴衆の誕生」)エリック・サティの「家具の音楽」のように「音」とは本来、家具と同様、そこら辺にあっても日常生活を邪魔しないもの。ジャズだって語源はJass ≠ Jasm(Jism)=精気、精液“を意味し、2人の「世界」に精気を吹き込みJass it up”(現在の“Fuck you”:「やっちまえ」や「さっさとやっちまいな」と盛り上げ、ロックン(揺れて)ロール(転がり)「心地よくする」効果をもつのが音楽。(デカルト 音楽提要)

「音楽にはひとつの作用があって、自分の心を打つその音以外に、外の世界にはもう何も存在しないような気分にさせてしまう」(オペラ座の怪人Chap13)

音を消す音のテリトリー
「校長先生のお話です」この「音」を聞いた途端に皆さんの頭の中には校長先生の「声」を聞こえなくする一人一人それぞれの音楽が流れなかっただろうか?音には鳥が歌うように「これ以上入って来るなよ」と威嚇するテリトリーを明示する役割と、テリトリーを拡大して他のテリトリーを侵略する脱テリトリー化の役割がある。

「わたしの家に入ろうとしないことだ」(オペラ座の怪人Chap22)

 ジョン・レノンはひとりひとりが自由な歌を奏でることのできる無音の国歌 “Nutopian International Anthem”を作曲し国境のないユートピア“Nutopia”を夢みていた。自分の愛する「心地よい」音以外は雑音にすぎないとデカルトも言っているのだ(笑)。つまり音には音を消す「無音」の「抵抗」の効果が存在する。校長先生に一人たりとも「スピーチを早く終わってくれ」と「音」で抗議した人はおるまい。ジョン・デンバーは「リチャード・ニクソンの物語」やその副大統領スピロ・アグニューへの沈黙の抗議を無音で行っているし、イギリスのアナーキーなロックバンドCrassの無音音楽“The Sound of Free Speech”は痛烈なキリスト批判の歌詞をレコードとしてプレスすることへの工場の職員の抵抗により生まれたものだ。このように抵抗としての無音の音楽は数多く存在する。

音=脱テリトリー化
 動物にとって無音は彼等の生命線であり、動物が最も大きな声で鳴く時とは死の直前のみだと言われている。反対に人間は危機から身を守り、生きるために「音」を利用し「脱テリトリー化」する。登山の時の鈴が他者(動物)のテリトリーを安全に侵犯させてくれる「祈り」の役割を果たす。(ドゥルーズ)音の彼方へ到達するための生命の音、それが音楽であり、「死」は音の彼方へ到達できない者の沈黙=「無音」と思われるかもしれない。しかし、クラウディオ・アバドのあのモーツァルトのレクイエム終了後の沈黙(ルツェルン音楽祭)ほど聴衆を飲み込み、聴衆が一体化した無音もなかろう。あの瞬間、カオスがまとまり、ひとつになったのだ。

無音=有音
 無音音楽といえば上記ジョン・レノンの「無音」国歌以外にも有名なジョン・ケージの「4分33秒」がある。ジョン・ケージは沈黙とは人工的に生成されたひとつの「音」であり、自然状態に沈黙は存在しない、自然には常に「音がある」ことを人工的に「音がない」音楽を通して証明した偉大な作曲家だ。コンサート会場では何故か演奏が終わった途端に恐ろしい程のひとの咳払いが聞こえるが、音は音楽が流れなくとも自然状態に溢れかえっている。ケージはそこに命を観た。ハーバード大学無音室の中でさえ自分の身体が奏でる「音」を聴いたケージは、演奏者が何も奏でない無音の3楽章中に聴かれた音をもって「音楽」とした。音とは生命の響きなのだ。

 夫が亡くなる瞬間にピーと鳴り響いた生命の最期を示す心電図の電子音。手術後に人工心臓を外し自分の心臓で呼吸を開始したことを知らせる息子の心臓の鼓動の音。音とはそのような「生気」のようなもの。子どもの学校からの帰りを知らせるランドセルの鈴の音。そして何よりも「お母さん」と呼ぶ子どもの声。今でも脳裏の彼方で鳴り響き安らぎを感じさせる。音とは聞こえない時に聞こえ、聞こえる時には聞こえない。夫の生命の音なんて生きている時には意識して聞かない。「お母さん!聞いてんの?」あれほど毎日聞いていた時には聞いていなかったにもかかわらず…

Come on, Come on, Come on, Come on, Come on, Come on…
 きっと聞こえすぎて聞こえなかったのだ。音には聞きすぎると聞こえなくなる効果がある。例えば、ビートルズの“Please Please Me”を大音量で聴き、大声で明るく歌える日本人は本当の意味ではなにも「聞いていない」のだ。プリンスの“Kiss”や“Come”ではさすがに音量を下げるだろうに…あの”Please“ほど執拗に女性にフェラチオを明るく強いる歌はあるまい。1980年の「プレイボーイ」誌のインタビューでジョン・レノンがその男(作詞者)だと発覚したが、フロイトが指摘した様にあの”Please“の明るい嘆願がまさかの嘆願だとは誰にも「聞こえすぎて聞こえなかった」。(モーセと一神教)何度も反復して同じフレーズを聞きすぎると、そして同じものを見続けるとひとは「思考停止」し、その意味を考えなくなる。

Please, Please me, whoa, yeah
Like I please you

You don’t need me to show the way, love
Why do I always have to say, love?

音の充満=無心
 デリダは余計な音が聞こえないくらいに音を充満させることで無知(沈黙)の作用が現れると説いているが、「シャイニング」「スタンドバイミー」等の作家スティーブン・キングは執筆するとき大音量で沈黙の効果を生成し「無心」で執筆に集中するそうだ。(「書くことについて」)フロイトが最期の著作「モーセと一神教」(1939)でファシズム政権誕生への警鐘として集団狂気生成の原理としての「音」の分析を行っていたにもかかわらず、誰にもフロイトの箴言は「聞こえず」ヒトラーはまんまとこの原理を利用し政権を掌握した。繰り返される音の反復には自己実現の祈りの効果があり「我が闘争」とは言わば権力を握る為の「音」の取扱説明書とも言える。繰り返される音にはひとの気を違わせ「人の目を反対に向ける」効果(フロイト「モーセと一神教」)と「共同体形成の力」があり「人民集会」を形成するのだ。(アドルノ 「ベートーベン 音楽の哲学」)

音の彼方へ=Fugue
 例えばモラルハラスメントについて考えてみよう。世間に「先手を打って」大音量で暴力的に拡散された「音の過剰」は「聞こえすぎて聞こえない」「音の欠如」=口封じの効果を生み出し、中傷された当の本人が後から何を言ってもひとには「聞こえない」。そして沈黙しているのは真実だから何も言えないからだろうと更に反転された事実が拡散されていく。(イルゴリエンヌ)音には反復することで「非同一性」を「同一性」なるもの「事態はこうなのだ」と変形するフーガ=気付かれない「逃走」(fugue)の力がある。(ibid.)

Fugue= 逃走、情熱、逃げる、いない、見当たらない、気づかれない、知られない

 そしてそんな「人民集会」では闇夜から牛を引き出すことはできない。精神でも自然でもない無差別としての同一性が絶対者だからだ。ヘーゲルのシェリング批判として有名なこの逸話を黒人差別に適用し、キャンバス一面を単色の黒で染め「地下鉄で闘う黒人たち」とタイトルしたフランスの芸術家アルフォンス・アレー。見える人には見える、この「見えないけど見える」黒人の勝利は今の我々の時代においては「見えすぎて見えない」。真実と虚偽はすべて「アゴラ」(集会=メディア)で形成され、ポリコレでアウトだ。ナチズムへの反省としてヒトラーの「我が闘争」を電車内で読んだ私は、私を二度見した他の乗客の目には危ない奴=「ネオナチ」。「見えすぎて見えない」「反ナチ」は「ネオナチ」となる。

葬送という生と死の中間(メディア=Medium)
 フロイトがナチスに権力を掌握されたオーストリアを去り、亡命先のロンドンで発表した上記、最期の著書。音の過剰が音の欠如(無知)の効果を生むと説いたその時点では人民にはヒトラーの声が「聞こえすぎて聞こえない」その結果は「ユダヤ人収容所」=「葬送」多くの人の声(音)を奪い「沈黙」だけが後に残った。我々は聴覚障害者なのだ。そしてそんな聴覚障害者である我々に無音の「偉大な聴覚障害者の葬儀のための葬送行進曲」(1884)を遺した上述のアルフォンス・アレーは最も古い無音音楽の作曲家と言われている。聴覚障害者である我々にもう音(歌)など必要ない。そんなウィットを込めて彼はこの曲を「エイプリル・フールのアルバム」に収録した。(音が)聞こえれば(心が)聞こえなくなるし、(音が)聞こえないと(心が)聞こえる。「人は大きな悲しみの中で沈黙する」もう音など要らない。心の歌を聴けば良いのだ。


音のSymptom(症状)というイデオロギー
「音」という暴力は「音」の発信元である暴力者のもとに還っていく。レオナルド・ダ・ヴィンチはあまり知られていないが、才能ある音楽家でもあり音楽を他人に教えていただけでなく、独創的な楽器をつくったりもしていた。そして、魂を運ぶものとしての彼の音響学はヘルムホルツなど後代の音響理論を先取りしたものだった。音の発生には力と物質が必要で、叩かれれば振動し個体が空気に触れると共鳴(共振)する。レオナルドの「手記」には多くの音響学についての彼の着想が含まれており、レオナルドは実際、かなづちで机を叩いて音の「打撃の力の法則」についての実験、考察も行っている。(中村雄二郎 精神のフーガ)音=ハンマーで加えられた凹みが大きければ大きいほど、それは「加えられた力と同力量」で作用力の方向に戻っていくフックの法則に同じで、反作用力は音の「暴」力という作用力の方向に同力量、同スピードで戻っていき、ひとは思考停止し沈黙する。ヒトラーはこうして音の過剰から音の欠如=無知=従順性を国民に生み出しナチズムという「症状」を形成した。この音の暴力の(「クレ(必然)」+「オド(経路)」)が生み出す症状「symptom」とは身体的にも心理的にも 悪い方向(アトラクタ)にsym(共に)ptom (引っ張られ=引力)「関係(ペア)を病み」間違った人を信じ同一化すること。(シェルドレイク、ピアジェ、ルネ・トム参照)フロイトの弟子フェレンツィがフロイトの集団心理学を継承し考察した音のパラドクスである。ナチズムを批判したハンナ・アーレントはこれを暴力の自動安全装置と呼んでいる。(アーレント)

過剰=欠如
 このように強い力(大音量や恐怖、反復される情報など)が物体(ひと)に加わるとひとは心身共に凍結し思考停止する。「怖い」「助けて」叫ぼうと思うのに声を失う。極度の感情にひとは「無知」を装い「口を噤む」。大声をあげて泣きたいのに辛すぎて「泣けない」。「震える」ことが出来ないからだ。「震える」ことができなければ「音」=言語を用い思考もできず「魂をなくした哀れな音楽機械」となる。(オペラ座の怪人Chap10)このように音=言語の中に同化しきれないような感情=音の過剰はひとから音を奪い「音の欠如」(口封じ、無知)の効果を生みだす。これを天然の麻酔薬=解離という。音が大きすぎると音は聞こえなくなり、また見えすぎても見えず、知り過ぎても真実から目を背ける。化学的な麻酔薬が存在する前は手術も痛すぎて痛くなかったのだ。これは動物一般に共通すること。その生体の予後が破滅となるか救済となるか、それは「震えることができたか」で決まるそうだ。(治療のため捕獲された動物もリリースされる前には必ず「震えた」かどうかを確認されるそうだ)ひとも同じで、恐怖に震え、悲しみに「心」が振動するとき「声帯」が震え、ネガティブなエネルギーは「音」=言語として体外に排出され「音」=「言語」は冷静な思考を可能にする。

うたた
 このように、ひとは音の過剰=「うたた」(「うた状態」=「転た」、「仮」;「うたかた」「うたたね」)に生き「目覚めながら夢を見ている」と分析されている。(折口信夫)聴覚のみならず視覚、嗅覚的にも五感の過剰は欠如を生み正常な判断を奪う。聞こえすぎて聞こえず、知り過ぎて知らず、匂い過ぎて匂わず、見えすぎて見えない。過剰は道を作るからだ。(ソポクレス コロノスのオィディプス)光も浴びすぎると盲目の効果を生むばかりか、ホルモン活動が活発化し、性的に早熟、活発化し、精神的にも不安、攻撃性が増す。光の過剰は身体に長く生きていると勘違いを起こさせ初潮年齢も早まる等、成長前傾現象が引き起こされるそうだ。動物に於いては既に実験実証済みの事実である。「うた状態」の人間は生き急いでいる。フロイトはこれを「死の欲動」と呼んだ。見えすぎて見えず、聞こえすぎて聞こえず、知り過ぎて知らない。これが「生」であれば、オィディプスが「死」に於いて初めて目が開き、見えないものが見え、聞こえなかったことが聞こえ、知らなかったことも知ったように我々も悟りに到達するのかもしれない。ケインズが「わが孫たちの経済的可能性」で憧憬したような「物事のなかに直接のよろこびを見いだすことができる…野の百合の様な人」でありたいものだ。


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