読書メモ 「リヒテル」

「リヒテル
 ブリューノ・モンサンジョン
 
    中地
義和/鈴木圭介 
 筑摩書房 2000年



好きなアーティストについて書かれた本は、読むのにいつでも少々勇気がいる。もし読むことで、自分がその人なり、作品に対して抱いているイメージが壊れてしまったら…。思いが強ければ強いほど、読むのをためらってしまう。


ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテルが大好きだ。リヒテルの弾いたバッハの《平均律クラヴィーア曲集》は、もし、無人島に行かねばならないとしたら、その際に五つまでしか持ち物が許されないとしたら、その五つの中に、私はこの作品をきっと入れるだろう。


《平均律》があまりに素晴らしいので、私はリヒテルの他のディスクを持っていない。彼の弾くショパンもプロコフィエフも持っていないのだ。そして、リヒテルに関して書かれた本も、今まで一冊も読んでいない。何となく、聴くのが恐い、読むのが怖いからだ。しかし、リヒテルのことをもっと知りたいという気持ちは、募るいっぽうだった。


リヒテルに関する本がいくつかある中で、私がこの一冊を選んだのは、第二部が、リヒテル自身が長年書き溜めた「音楽をめぐる手帳」という音楽論評になっているからだ。
自身が聴いたピアノ演奏会、オペラや歌曲の上演会、自身や同時代の仲間の録音された音源などに対して、驚くほど率直、簡明に感想が述べられおり、そこには気取りも忖度も、全く存在しない。これを読むだけでも、リヒテルは雑音に惑わされることなく、純粋に音楽を愛する人であったことが伝わってくる。


第一部はどうだろう。結論から言うと、私は著者のブリューノ・モンサンジョンに拍手喝采を送りたい。序文の長い前置きはともかく、リヒテルのシルエットを正確に誠実に描出することに、モンサンジョンは腐心しているからだ。細心の注意を払いインタビューを重ね、手にした貴重なドキュメントを愛でるように再構成し、「ありのままのリヒテル」を描き出すことに成功している。
リヒテルはカメラ嫌いで、突然コンサートをキャンセルしたり、なかなか気難しい人だったそうだが、この本を読むと、なぜそうなったのかが何となく分るような気がした。リヒテルは、彼の生きた時代の政治の大波に翻弄され続けてきたのだ。はっきり言ってリヒテルにとって、そんなことはどうでもいい事だったにも関わらず。東西の壁に阻まれ、西側では幻のピアニストと呼ばれながらも、リヒテル本人は西側で演奏することを、そこまで望んでいた訳ではなかったそうだ。リヒテルの理想は、旅をしながら、ここぞという場所が見つかったら気の向くままに演奏会を開くというスタイルだった。だからグールドのように録音というものには、本質的には興味がなかったし、その場限りのライブ演奏こそ音楽の本領と捉えていた。


リヒテルが、綿密に練り上げられ、周到に計画されたものの中にはない、偶然の驚きや煌めきに魅力を感じていたことや(もちろんそこには膨大な練習や真剣な鑑賞が存在することが前提だ)、ピアノ曲よりもオペラから多くを学んだということに、私は新しい発見をしたと同時に不思議な共感をおぼえた。
読み終えた今、この本を選んで良かったと思う。私はリヒテルがますます好きになった。これは私の蛇足だが、グールドがゴルトベルク変奏曲の繰り返しを省いたことを嘆いている部分で、私は心の中でガッツポーズをした。まさしく私もそう思っていたからだ。ミケランジェリやポリーニがつまらないという点も然りだ。
「音楽をめぐる手帳」に出てくる音楽を、これから少しずつ聴いていこうと思う。


初めてリヒテルの《平均律》を聴いたのは小学生の時だ。家にカセットテープがあった。先日「今、リヒテルの本を読んでいる」と母に言ったら、「昔、リヒテルの演奏会に行ったね」という言葉が返ってきて、私は固まった。いや、前にも言われたことはあるはずだ。なのに、自分がリヒテルをこの目で見たという現実は、未だに宙に浮いたままだ。
私はまだ保育園に行っていて、演目はベートーヴェン、場所は厚生年金会館だったそうである。
あぁ…

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