2度目の流産😢どん底期STAGE2

この頃の私は、本当にいつも何かにビクビクしていて、正体のわからない怖いことが思考を埋め尽くし、きっとうまくいかないという考え方しかできなかったように思います。

そんな私がセカンドオピニオンのつもりで選んだ産院の医師に、最初に行った産院での診断結果を伝えた時、その診断結果を下した産院を、本当〜に微妙にですが、否定するような言葉を言われました。
藁にもすがる思いで車を1時間走らせて行った産院ですから、やはりほんの少しだけ期待もあり、流産という診断にほんの少し疑問を持っている医師を目の前に、私は最初からこの産院を選べば良かったとか、やっぱりまさか2回連続流産なんてないよね?とか、明るい気持ちが胸の中に宿った感覚がありました。

しかしながら、流産の可能性を否定されたわけではないので、一週間ごとに受診することになりました。

毎日毎日が不安でした。出血したらどうしよう。。。。出血したら流産確定だ😭
流産してしまったら、もう妊娠できないかもしれない😭
私は赤ちゃんが産めない体なんだろうか?

これらの思いが私の思考を埋め尽くしていました。

心配していた通り残念ながら出血が始まり、日によって量もまちまちでしたが、お腹もなんとなくいつもシクシク痛み、なんとも言えない恐怖が襲ってきました。

結果、流産確定の診断とまた掻爬術の説明を聞き、一人で泣きながら運転して絶望を感じながら帰宅しました。

今回の流産では、手術日を待たずして、ある夜、実家でものすごい腹痛と大量の出血に襲われ、産院に電話し産院に駆け込んだこともありました。

その時、私のおばあちゃんが泣きじゃくりながら支度をする私の背中をさすりながら、「辛いよな、辛いよな、痛いよな」とおばあちゃんも泣いていたことを覚えています。

いつもは楽観的で強気な母も2回目の流産の現実に苦しむ私にどんな言葉をかけたらいいのかわからないような様子で、泣きそうな悔しそうな顔をして病院まで付き添ってくれました。

結果、その日は手術を行わず、予定通りの日に掻爬術を行いました。

今回の手術では、麻酔がしっかりと効いてくれましたが、麻酔が解けたあと、車酔いのような感覚で、ずっと気持ちが悪く何度も戻してしまい、体はだるいし気持ち悪いしで、帰りの車の約1時間は地獄のようでした。

結局、次の日まで車酔いのような気持ち悪さが残りました。

次の日は実家の私の寝ている部屋の窓から、夏の空を見上げながら泣き、夏の夕方の風を感じながら泣き、生垣の緑を見ながら泣き、もう何も希望が持てない自分になっていました。

でも、実家があって、優しくしてくれる家族がいることに本当に感謝しました。今でも、その経験はとても辛い思い出と共に、まだ元気だった今は亡き優しいおじいちゃんと、今ではすっかりボケてしまった今年97歳になるおばあちゃんがまだシャキシャキしていた記憶と、支えてくれた父母と会うだけで癒される姉家族と色々動いてくれた妹、みんなの姿は温かく思い出されます。

しかし、まだまだ地獄は続きました。

術後最初の検査で、まだ尿の中の妊娠反応が消えていないというのです。

主治医は、「細胞レベルで妊娠反応が残っているのかもしれない。もしかしたら、抗がん剤を使うかもしれない。とりあえず、一週間ごと受診して様子を見ていこう。」と言いました。

「抗がん剤!?」「なんで!?」「怖い怖い怖い怖い」

とにかく怖かったです。

実家から自宅に戻った私は夫に泣きながら主治医からの言葉を伝えましたが、夫から出た言葉は「ていうか、流産して良かった。俺、責任とか持ちたくないし、子どもなんかできたら仕事辞められないじゃん」という信じられない言葉でした。

わざと私を傷つけてどうしたいんだろう?こんな人いる?嘘だよね?と本当に夫の口から出た言葉なのか信じられない思いで、混乱しながら、頭のどこかでは家族にまた私の可哀想な話ができると思っているおかしな私がいました。
完全に悲劇のヒロインになりきって、そこから抜け出そうとはせず、みんなに可哀想だと思ってもらいたいという欲求が強かったんだと思います。

夫のパソコンで流産後の抗がん剤使用についての調べ物をしていた時も、

「ゲームやるんだからどけよ。抗がん剤とか俺には関係ないからどうでもいい」と言われ、傷つくのですが、やはり「ほらまた私は可哀想。みんなが同情してくれる。早く話したい。」なんて思ってしまっていました。

私は自分の人生を生きていなかったのです。

その後、すぐに夫は職場に退職届を提出し、私をまた不安のどん底に叩き落としたのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?