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フランス旅行記 リヨン篇 2

今は昔

今はすっかり大昔となってしまったわけですが、わたしは20代のころ学生としてリヨンに住んでいました。留学していたわけです。フランソワ・ミッテラン大統領時代。世の中は東側と西側に分かれていたころ。EUができる前のころ。通貨はフランスフラン。1フランスフランはだいたい16円から20円くらいの幅で動いていました。18歳の男性に対する1年間の兵役義務があった時代。この制度はジャック・シラク大統領時代の1996年に廃止となりました。学割は26歳まで。これからの社会を担う若者や学生により多くの機会を与えていくという考え方。現在では奨学金という名目で多額の借金を学生が負うことがあるけれど、これではまだ若くいろんな可能性があるのに、自らかちかちにかたまった社会的ヒエラルキーの中へ飛び込み固定されていくような感じがします。ヒエラルキーの中で生きるためには個性やアイデンティティを隠すか削るかして画一化に努めるということになってくるだろうし。そうならずに学問していく方法はないのかな。専攻科目を選ぶにもかなり選択肢が狭まってくるでしょう。でも、コロナ後の世界はこれまであった緻密なヒエラルキーがゆるく溶けて、自分のオリジナリティや信用により横につながっていく世界が来ると思うから、いかに個として充実していくか、自分を掘り下げていく作業が大事になっていく気がする。わたしが留学していたときは、今でいうところの水道光熱費くらいの金額でひと月生活していた。贅沢はできなかったけれど学費もほとんどかからなかったし、学食もあったし。そのくらいの生活費で自由に学問することができていた。

ラッシェル

結構勉学にいそしんでいたにも関わらず、なかなか結果がでない時期でした。日本にいたころもこれほど勉強したことはないというくらい勉強していたけれど、なかなか進級しない。そんな毎日を送っていたとき、ある選択科目の授業で一人の女子学生がとなりの席にすわりました。この人がラッシェルです。まさかその時は生涯の友人となろうとはまったく思ってもみなかったのですが、縁は異なもので、あの時偶然隣の席にすわった彼女は現在もなおよき友人としてつき合いが続いています。

またもや進級試験の時期となり、とりあえずやれることはやったし、エッセイもなんとか書いた、でもまただめだったらどうしようかなあと考えながら結果を待っていたとき。試験結果の発表があって、名前が廊下に貼りだされているので見に行こうと歩いていたら、向こうからラッシェルが来て「名前あったよ」と言ったのにはおどろいた。「え?だれの名前?」「あなたの名前。よかったね。」

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これでなんとか1回進級。しかしこのあとはなかなかうまくいかず、苦戦に次ぐ苦戦。ラッシェルは進級して同じクラスではなくなったけれど、時々リヨン近郊のヴィロバンヌにある彼女の自宅に遊びに行きました。いつもラッシェルのママがごはんを作り迎えてくれて、おなかいっぱいおいしいごはんをごちそうしてくれたものでした。笑顔が素敵なママ。「いっぱい食べなさい、元気でいなさい」ママがつくるサフランごはんは本当においしかった。

いくつか季節が過ぎたころ、ラッシェルは付き合っていたジャン=マリーと学生結婚することになりました。彼は2つ年上の理工学部の学生。ジャン=マリーが卒業すると同時に、二人は市役所で結婚式を挙げ、それからささやかな披露宴を自宅で開き、家族と友人たちに祝福されて新しい生活を始めて、1年半くらいしてナディアが生まれました。

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このころわたしはというと、自分なりに頑張ってきた勉強ですが、結局学位という形にはならないまま学校をドロップアウトするという形になりました。担当の教授だったエレンの「ほんとによく努力してきたあなたをみてきました。しかしこのあたりで人生をシフトしたほうがよいと思う。ここでこのまま時間を費やすより、きっとよりよい方向性があるはず」という言葉を受け、地面がなくなってしまうくらのショックを受けました。これからどうするか相当悩みに悩み、結局日本に帰ろうという決断をしたものの、帰っても一体なにをどうすればいいのかも分からないでいる状態。しかし、今となってみれば、エレンはよくこの言葉をわたしに言ってくれたものだなあと感謝しています。

この時がちょうどラッシェルの出産と一致している。わたしはこれからどうするかと悶々と苦しみ、ラッシェルは初産に挑んでいる。後でお互いに話したときなんだか不思議な気持ちになり、ナディアが生まれたということについて一層の感慨がありました。

2016年3月

光陰矢の如し。ナディアが成人し巣立っていったということは、それだけ時間がたったということ。それで2016年3月。久しぶりにラッシェルから電話がありました。いつもと違う感じでぽつんと言ったひとこと

「ママ、死んじゃった」

この言葉は透明なかたまりになってすうっと身体の中を横切っていった。なんだか大きな忘れものをしてきてしまったような、もう取り返しがつかない喪失感につつまれた。

「いつ?」「先月」「そうか…」

こんなそっけない会話とは裏腹に、なんにもできなかった自分を責めた。どうして長い間リヨンに戻らなかったのか。どうして長い間ラッシェルのママに自分は元気でいることを伝えなかったのか。若くてまだまだ海のものとも山のものともつかないでいたわたしを、圧倒的に受容してくれたママ。彼女にわたしは一体何ができただろうか。

「そっちにいくから。待っていて。」「わかった、待ってる。」

それから3か月後の6月、リヨンに向けて飛び立ちました。











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